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何かまた体調悪化中のケイトです。
原因はアレですね、確実に・・・
こっちに帰ってくる当日、朝食の席でヤツがやらかしたんですよ!
・・・リバース・・・ゲ○ッと。
まあ可愛い身内のしたことなので許しますが・・・
ノロじゃないことを祈る!(切実に今そんなのにかかっている場合ではない)
最近の流行の漫画や話を見て思うこと。
結末が「対自分」だよなぁ。
色んな人や出来事と出会って成長する、変わっていく主人公・・・
というのは永遠のテーマですが、最近は「現状の自分の全てを受け入れてもらう」
かたちでのエンドが多い気がします。
どんな人物や出来事と出会っても、結局は主人公自身は
「自分」をより深く知っただけ。本当の意味で「他者」を知ったわけではない。
「自分」は他者に受け入れてもらうことを望んでいるのに、その「自分」は
自身のことでいっぱいいっぱいで、他者をきちんと見ようとしていない。
それなのにラストはそんな主人公の望みが叶えられ「ハッピーエンド」に
なるわけです。
確かに現代社会を考えたらそういう作品が生まれてくるのは
必然のような気もするし、その存在には意味があると思う。
でも余りにもこういった傾向の作品が増えすぎて、「対他者」の
視点での作品が最近余り見られない気がして。
「対自分」を経て初めて「対他者」があると思うので、
「対自分」に捉われたままだといつまでも心の成長がないように思うんです。
精神年齢がどんどん幼くなっているというか・・・
私もまだ子供で「自分」に捉われているので余り上手くは言えませんが、
「自分」と切り離れた存在である「他者」というものを考える場を
そろそろ提示する時期に来てるんじゃないかな~、と。
自分は他人にはなれないんだし、他人のことを全て理解するのは不可能。
それは他人も同様で、自分の全てを理解し、受け入れてくれる他者、
なんて絵空事だと思うんです。(というか、そんなのいたら気持ち悪い)
どんな人や出来事と出会っても、オナニープレイに終わってしまったら
意味が無い。他者はダッチワイフじゃないんですから。
「同一のもの」を求めるのではなく「異質のもの」との触れ合い、
それによって人は、その周りの世界はどう変わるか。
その辺を誰か・・・(結局他力本願)
何か過激な言葉入り(笑)の小難しい話を延々とすみませんm(__)m
結末が「対自分」だよなぁ。
色んな人や出来事と出会って成長する、変わっていく主人公・・・
というのは永遠のテーマですが、最近は「現状の自分の全てを受け入れてもらう」
かたちでのエンドが多い気がします。
どんな人物や出来事と出会っても、結局は主人公自身は
「自分」をより深く知っただけ。本当の意味で「他者」を知ったわけではない。
「自分」は他者に受け入れてもらうことを望んでいるのに、その「自分」は
自身のことでいっぱいいっぱいで、他者をきちんと見ようとしていない。
それなのにラストはそんな主人公の望みが叶えられ「ハッピーエンド」に
なるわけです。
確かに現代社会を考えたらそういう作品が生まれてくるのは
必然のような気もするし、その存在には意味があると思う。
でも余りにもこういった傾向の作品が増えすぎて、「対他者」の
視点での作品が最近余り見られない気がして。
「対自分」を経て初めて「対他者」があると思うので、
「対自分」に捉われたままだといつまでも心の成長がないように思うんです。
精神年齢がどんどん幼くなっているというか・・・
私もまだ子供で「自分」に捉われているので余り上手くは言えませんが、
「自分」と切り離れた存在である「他者」というものを考える場を
そろそろ提示する時期に来てるんじゃないかな~、と。
自分は他人にはなれないんだし、他人のことを全て理解するのは不可能。
それは他人も同様で、自分の全てを理解し、受け入れてくれる他者、
なんて絵空事だと思うんです。(というか、そんなのいたら気持ち悪い)
どんな人や出来事と出会っても、オナニープレイに終わってしまったら
意味が無い。他者はダッチワイフじゃないんですから。
「同一のもの」を求めるのではなく「異質のもの」との触れ合い、
それによって人は、その周りの世界はどう変わるか。
その辺を誰か・・・(結局他力本願)
何か過激な言葉入り(笑)の小難しい話を延々とすみませんm(__)m
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結末が「対自分」だよなぁ。
色んな人や出来事と出会って成長する、変わっていく主人公・・・
というのは永遠のテーマですが、最近は「現状の自分の全てを受け入れてもらう」
かたちでのエンドが多い気がします。
どんな人物や出来事と出会っても、結局は主人公自身は
「自分」をより深く知っただけ。本当の意味で「他者」を知ったわけではない。
「自分」は他者に受け入れてもらうことを望んでいるのに、その「自分」は
自身のことでいっぱいいっぱいで、他者をきちんと見ようとしていない。
それなのにラストはそんな主人公の望みが叶えられ「ハッピーエンド」に
なるわけです。
確かに現代社会を考えたらそういう作品が生まれてくるのは
必然のような気もするし、その存在には意味があると思う。
でも余りにもこういった傾向の作品が増えすぎて、「対他者」の
視点での作品が最近余り見られない気がして。
「対自分」を経て初めて「対他者」があると思うので、
「対自分」に捉われたままだといつまでも心の成長がないように思うんです。
精神年齢がどんどん幼くなっているというか・・・
私もまだ子供で「自分」に捉われているので余り上手くは言えませんが、
「自分」と切り離れた存在である「他者」というものを考える場を
そろそろ提示する時期に来てるんじゃないかな~、と。
自分は他人にはなれないんだし、他人のことを全て理解するのは不可能。
それは他人も同様で、自分の全てを理解し、受け入れてくれる他者、
なんて絵空事だと思うんです。(というか、そんなのいたら気持ち悪い)
どんな人や出来事と出会っても、オナニープレイに終わってしまったら
意味が無い。他者はダッチワイフじゃないんですから。
「同一のもの」を求めるのではなく「異質のもの」との触れ合い、
それによって人は、その周りの世界はどう変わるか。
その辺を誰か・・・(結局他力本願)
何か過激な言葉入り(笑)の小難しい話を延々とすみませんm(__)m
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