忍者ブログ
ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


ブ○ゴスで読んだA智さんとM村さんの同.性.愛者お二人の対談の内容に考えさせられてしまったんだけど、私はやっぱり特にこの日/本で、同/性/愛者が子どもを持つこと、関連して欧米で盛んな人種の違う養子を取ることには抵抗を覚えてしまう。
※以下、病み要素も入ります。


まず理由としては子どもの視点で考えると、両親と自分との血の繋がりが無いことに早い段階で気づかざるを得ないだろう、という点。(同.性.愛者なら片方が実の親、というのは可能ですが)マーニーの主人公じゃないけど、里親制度とか育ての親がどんな覚悟で自分を引き取って慈むために努力してきたか、ってことを理解できる年齢になる前に知っちゃうとすごくショックですよね。周りから見ても一目瞭然な訳だから、ちょっと知恵をつけて他の子どもをからかうことを覚えたクソガキたちの格好の標的にもなってしまう。結果的にそういう特殊な状況で自分を引き取った親を責めたり恨んだり、反発するようになってしまう可能性だって生じやすくなる。自分を今まで精いっぱいに世話して愛してくれた相手に対してレイシストになる、って最悪じゃないですか?
白人に引き取られたアフリカンならルーツへの親近感や仲間欲しさに黒人のギャングに近寄っていくかもしれないし、ゲイカップルに育てられたことでいじめにあってきた子どもは将来その原因としての両親を憎み、酷いホモフォビアと化すかもしれない。移民の受け入れと多文化共生が日.本より進んでいる欧米でさえ既に生じている問題であるならば、より均質な社会形態を維持して久しい日/本が適応するには本当に長い長い時間がかかると思う。だって日曜日の練習ミサのために出れません、って言った子が顧問に「それならウチの部は辞めてもらう」ってフッツーに言われる国ですよ? 多様性もクソもねぇんだわ、絶対部活制度でこの柔軟性の無さ! 和を乱す人間、周囲を混乱させちゃうような家族は地域コミュニティにい続けられないんですよ、残念ながら今の体制では。でもだからこそ子ども会の廃品回収や町内会の一斉清掃システムが機能したり、震災時の統制と落ち着きとかの面では上手く回ってる日.本の良い面でもあるのかな、とも思うんだけど。絶対じゃなかったら入らなかったであろう(笑)部活で学んだことは多かったし、嫌なことも良いことも含めて、中学の思い出と言ったら部活くらいなもんだもんなー。
まぁとにかくよっぽど自称リベラル()畑な経営者・教師・保護者が集まるような特殊な私立校でも創らない限り、日/本で同/性カップルや他人種の養子がコンプレックスを感じずに成長できるとは思えない。そりゃどんな人間でも一度もイジメや壁にぶつからない、ってことは無いだろうけど、親のセクシュアリティを受け入れることや、自身のアイデンティティの確立にかなりの負担というか歪みを生じる率が高くなるのが目に見えすぎると正直感じる。施設で育って、同じような境遇のきょうだいのような存在を得られる方がある意味幸せなんじゃないか? ウチみたいな社会では。ソッチ系専門の家庭ネットワークやフリースペース的なものを設けたとしても、今度は隔離措置だ、税金使った特別扱いだ、みたいに双方から騒がれそうだし、勇気出してそういうことにチャレンジする日.本人はまず少ないだろうから、子ども同士が会える距離にいないと意味ないしな。

かと言って私、フラ○スみたいに小さい頃から刷り込みのように「L G B Tは異常なことじゃないんですよー」って教育に織り込んじゃうのも抵抗があって。「男の子が無理なら女の子は大丈夫? じゃあバイなのかな?・・・いや、マジで結局具体的にイチャつきたいとか想像がつかないでござる(-_-;)」と迷走した経験があるから(大体よく考えたら最初のトラウマの相手女の子だったっつーのに。笑)、返って思春期に差し掛かる前の子どもの心を混乱させてしまうだけなんじゃないかな、って。本当に好きな訳じゃないのにそういうことしちゃったり、相手は本気で後からそのことを後悔したり傷ついたり、ってことが逆に起こり得ないのかと心配なんです。
私の時代は小学校高学年の性教育の一環(精.通や月/経が始まる頃ですから)で、世の中には多様な性を持った人がいます、ってレズビ○ンの方の例を教科書で淡々と眺めた記憶があります。 正直そのくらいの年齢になってから、その程度でちょうど良いんじゃないか、と思ってる。恐らくその後の第二次性徴を終える頃にはL G B T系は大体が自分の性について自覚しているだろうし、そうなったら今はネットとかにいくらでも情報が転がっている時代だからソレ自体や伴う問題についても調べて自分なりに考えられるだろう。世間の見方についても、対抗したいと思ったらカミングアウトして闘う方法なり、擬態してこっそり上手く馴染むなり。

私は自分が性的接触をどうしても無理だと考えるのと同じくらい、そういう人間の存在や考え方について納得・理解できない人がいるのは当然のことだと思ってるんです。(もちろんそれでも本当に大切でどうしても解ってほしい相手もいて、何回も一から説明して一緒に泣いちゃったり、ということもつい最近あったけど(^^; ※家族にはまだというか一生言える気がしませんが) ぶっちゃけ精神科医にもどういう状態なのか余りよく分かってもらえないしね!(まぁ成人してから知り合った相手に話すにはかなり面倒な経緯・状態だし、その他諸々の件もあり最近は診察途中に泣き出して話せなくなるからしょうがない\(^O^)/)とにかく人には誰しもそれぞれの物差しがあって、誰もが多数派に属する部分と少数派に属してしまう側面を持っていて、絶対に長さが重ならない単位だってあるんだ、と。だから、何事に対しても全ての人に受け入れてもらえることがあるなんて思わないし、許せる人がいれば許せない人もいる、その両方を認めることこそが個性の尊重や多様性の正しい在り方なんじゃなんじゃないか、と。欧米ではこうやってるんだから日.本でもやってみよう、受け入れないと遅れてる・不寛容だと判断するのは確実に間違っているように感じる。本当に日/本の同.性.愛者の大多数が望んでいるとは思えない政策で、陰でコッソリ互いをいたわりあって生きてきたような人たちが無理やり表舞台に引きずり出されてホモフォビアの矢面に立たされるような地獄絵図を見るくらいなら、この境界線が曖昧なヒッソリした現状を維持する、あるいは養子やパートナーシップ条件の緩和などをゆるやかに進めていく、というやり方の方がこの国には合っているんじゃないか、と思います。

妬み嫉みが入っている部分もあるかもしれない、とは言いましたけど、私本当にソッチ系の皆さんのことは心から羨ましいのと同時に尊敬しているんです。パートナーを得る勇気を振り絞ることができたこと、ある意味男女間のソレよりもずっと強いであろう愛情の在り方に。だから、この長く独特の同/性/愛の形がヒッソリと認知され文化として続いてきた国に、沿わないやり方で急激に変えられてほしくないと思う。明治になって衆.道が突然禁止され、歪んだ欲望や愛情の行き場に苦しんだ人たちはきっと沢山いたと思うから。子どもを生み家を託す奥さんと、同じ目的を持った主従や同士的な意味での衆/道のパートナー、それぞれに果たす役割が違ってバランスを取ってきた面もあったんだよね、きっと。そういう文化を一度破壊してタブー化してしまった、そういう過ち(歴オタなので消された歴史は素直に惜しみます(-人-)チーン)を繰り返してほしくないと思う。

拍手[0回]

PR


追記を閉じる▲

まず理由としては子どもの視点で考えると、両親と自分との血の繋がりが無いことに早い段階で気づかざるを得ないだろう、という点。(同.性.愛者なら片方が実の親、というのは可能ですが)マーニーの主人公じゃないけど、里親制度とか育ての親がどんな覚悟で自分を引き取って慈むために努力してきたか、ってことを理解できる年齢になる前に知っちゃうとすごくショックですよね。周りから見ても一目瞭然な訳だから、ちょっと知恵をつけて他の子どもをからかうことを覚えたクソガキたちの格好の標的にもなってしまう。結果的にそういう特殊な状況で自分を引き取った親を責めたり恨んだり、反発するようになってしまう可能性だって生じやすくなる。自分を今まで精いっぱいに世話して愛してくれた相手に対してレイシストになる、って最悪じゃないですか?
白人に引き取られたアフリカンならルーツへの親近感や仲間欲しさに黒人のギャングに近寄っていくかもしれないし、ゲイカップルに育てられたことでいじめにあってきた子どもは将来その原因としての両親を憎み、酷いホモフォビアと化すかもしれない。移民の受け入れと多文化共生が日.本より進んでいる欧米でさえ既に生じている問題であるならば、より均質な社会形態を維持して久しい日/本が適応するには本当に長い長い時間がかかると思う。だって日曜日の練習ミサのために出れません、って言った子が顧問に「それならウチの部は辞めてもらう」ってフッツーに言われる国ですよ? 多様性もクソもねぇんだわ、絶対部活制度でこの柔軟性の無さ! 和を乱す人間、周囲を混乱させちゃうような家族は地域コミュニティにい続けられないんですよ、残念ながら今の体制では。でもだからこそ子ども会の廃品回収や町内会の一斉清掃システムが機能したり、震災時の統制と落ち着きとかの面では上手く回ってる日.本の良い面でもあるのかな、とも思うんだけど。絶対じゃなかったら入らなかったであろう(笑)部活で学んだことは多かったし、嫌なことも良いことも含めて、中学の思い出と言ったら部活くらいなもんだもんなー。
まぁとにかくよっぽど自称リベラル()畑な経営者・教師・保護者が集まるような特殊な私立校でも創らない限り、日/本で同/性カップルや他人種の養子がコンプレックスを感じずに成長できるとは思えない。そりゃどんな人間でも一度もイジメや壁にぶつからない、ってことは無いだろうけど、親のセクシュアリティを受け入れることや、自身のアイデンティティの確立にかなりの負担というか歪みを生じる率が高くなるのが目に見えすぎると正直感じる。施設で育って、同じような境遇のきょうだいのような存在を得られる方がある意味幸せなんじゃないか? ウチみたいな社会では。ソッチ系専門の家庭ネットワークやフリースペース的なものを設けたとしても、今度は隔離措置だ、税金使った特別扱いだ、みたいに双方から騒がれそうだし、勇気出してそういうことにチャレンジする日.本人はまず少ないだろうから、子ども同士が会える距離にいないと意味ないしな。

かと言って私、フラ○スみたいに小さい頃から刷り込みのように「L G B Tは異常なことじゃないんですよー」って教育に織り込んじゃうのも抵抗があって。「男の子が無理なら女の子は大丈夫? じゃあバイなのかな?・・・いや、マジで結局具体的にイチャつきたいとか想像がつかないでござる(-_-;)」と迷走した経験があるから(大体よく考えたら最初のトラウマの相手女の子だったっつーのに。笑)、返って思春期に差し掛かる前の子どもの心を混乱させてしまうだけなんじゃないかな、って。本当に好きな訳じゃないのにそういうことしちゃったり、相手は本気で後からそのことを後悔したり傷ついたり、ってことが逆に起こり得ないのかと心配なんです。
私の時代は小学校高学年の性教育の一環(精.通や月/経が始まる頃ですから)で、世の中には多様な性を持った人がいます、ってレズビ○ンの方の例を教科書で淡々と眺めた記憶があります。 正直そのくらいの年齢になってから、その程度でちょうど良いんじゃないか、と思ってる。恐らくその後の第二次性徴を終える頃にはL G B T系は大体が自分の性について自覚しているだろうし、そうなったら今はネットとかにいくらでも情報が転がっている時代だからソレ自体や伴う問題についても調べて自分なりに考えられるだろう。世間の見方についても、対抗したいと思ったらカミングアウトして闘う方法なり、擬態してこっそり上手く馴染むなり。

私は自分が性的接触をどうしても無理だと考えるのと同じくらい、そういう人間の存在や考え方について納得・理解できない人がいるのは当然のことだと思ってるんです。(もちろんそれでも本当に大切でどうしても解ってほしい相手もいて、何回も一から説明して一緒に泣いちゃったり、ということもつい最近あったけど(^^; ※家族にはまだというか一生言える気がしませんが) ぶっちゃけ精神科医にもどういう状態なのか余りよく分かってもらえないしね!(まぁ成人してから知り合った相手に話すにはかなり面倒な経緯・状態だし、その他諸々の件もあり最近は診察途中に泣き出して話せなくなるからしょうがない\(^O^)/)とにかく人には誰しもそれぞれの物差しがあって、誰もが多数派に属する部分と少数派に属してしまう側面を持っていて、絶対に長さが重ならない単位だってあるんだ、と。だから、何事に対しても全ての人に受け入れてもらえることがあるなんて思わないし、許せる人がいれば許せない人もいる、その両方を認めることこそが個性の尊重や多様性の正しい在り方なんじゃなんじゃないか、と。欧米ではこうやってるんだから日.本でもやってみよう、受け入れないと遅れてる・不寛容だと判断するのは確実に間違っているように感じる。本当に日/本の同.性.愛者の大多数が望んでいるとは思えない政策で、陰でコッソリ互いをいたわりあって生きてきたような人たちが無理やり表舞台に引きずり出されてホモフォビアの矢面に立たされるような地獄絵図を見るくらいなら、この境界線が曖昧なヒッソリした現状を維持する、あるいは養子やパートナーシップ条件の緩和などをゆるやかに進めていく、というやり方の方がこの国には合っているんじゃないか、と思います。

妬み嫉みが入っている部分もあるかもしれない、とは言いましたけど、私本当にソッチ系の皆さんのことは心から羨ましいのと同時に尊敬しているんです。パートナーを得る勇気を振り絞ることができたこと、ある意味男女間のソレよりもずっと強いであろう愛情の在り方に。だから、この長く独特の同/性/愛の形がヒッソリと認知され文化として続いてきた国に、沿わないやり方で急激に変えられてほしくないと思う。明治になって衆.道が突然禁止され、歪んだ欲望や愛情の行き場に苦しんだ人たちはきっと沢山いたと思うから。子どもを生み家を託す奥さんと、同じ目的を持った主従や同士的な意味での衆/道のパートナー、それぞれに果たす役割が違ってバランスを取ってきた面もあったんだよね、きっと。そういう文化を一度破壊してタブー化してしまった、そういう過ち(歴オタなので消された歴史は素直に惜しみます(-人-)チーン)を繰り返してほしくないと思う。

拍手[0回]

PR

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック