×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
マ/リのホテル襲撃とロ○アによる空爆で亡くなられた沢山の方々、新.疆で殺された「テ○リスト」の皆様に深い哀悼の意を表します。
まず最近の件で、フ○ンスと日.本の大きな違いは何だろうか、と考えてみた。仏はテロの後、すぐにシ○アで空爆を行った。右翼も左翼も、誰もそれに異を唱えなかった。植民地も含め多文化・多宗教との関わりを長く持ち、移民との共存も当たり前だからこそ、いざ彼らとの間に「問題」が起こった際の対処や、それに対する覚悟がある程度「国民(祖国と戦う事態になるかもしれない移民自身も含め)」全員に浸透していた、ってことなんだろう。そんな中で、いくら難民を受け入れようと、外から入ってきた「国民」の割合が増えようと国としてのそのコンセンサスをこれからも維持し続けられる、と考えてるのが左翼で(つまり受け入れるけど何かあったら彼らの祖国との戦争も辞さない)、彼らを受け入れることでそうなるかもしれない事態の発生を少しでも食い止めよう、可能性を低めようと訴えているのが右翼。どちらも「国を憂う」という気持ちは本物ですね。ただそこに人道・博愛主義というエッセンスを加えるか、綺麗事は捨て「彼ら」と「私たち」の線引きをハッキリ付けた上で「私たち」の身を守ることを最優先に考えるか、って違いだけ。
一方で日本はどうだろうか。元々あった島国独特のマレビトに対する捉え方と、敗戦国として若干歪められて入ってきたリベラリズム(何故か戦争への贖罪や自虐とセット→つまりとにかくどんな事態が起ころうとも戦争=悪、絶対ダメ、という@遠い目( ̄д ̄;))によって、外国にルーツを持つ人々や多文化を擁護するような勢力は、「問題」が起きた時の対処法について考えることすら失礼、とでも言うかのように思考を停止させてしまった。そもそも多文化は当たり前に共生できるもので、「問題」が起きたとすれば彼らを完全に「受け入れられなかった」私たちの方が悪い、と。議論が不可能な土壌を作り出してしまったわけです。だから初めから移民や難民に対しては極端な完全排除派が力を増す。一方で右翼と言われている与党は、高齢化問題を解決するため(+外圧へのアピールのため)に一定数の移民を試験的に導入することを謡い始めている。この、彼らとの共生によって起こり得るかもしれない事態への対処、国民的コンセンサスの議論が実質的に封じられた状態でそれを実行に移すのは極めて危険なことじゃないのか?と個人的には思う。
関.東大震.災時のことを考えても、日/本は災害が多い国。土着的アニミズムと深く結び付いた神/道においては、自然はカミであり、災害はカミの怒り=地にそぐわぬマレビト(しかも異教徒)のもたらしたもの、という発想に行き着きやすい。直近の東日/本大震/災の例を考えるとそういう古来からの思想的排外主義から生じる危険、というのは大分減ってきたようには感じるけど、仮にテロのような悪意を持った「マレビト」による作為的事態が起こった場合に私たちが過激主義に走らずに済むか、また報復か忍耐か、という点について国論が二分せずに済むか、と考えると正直言って恐ろしいです。まさに「犯人」の狙い通りの混乱をきたす構図しか思い浮かばない。「他者」を受け入れるに当たってはあくまでも「報復」ではなく「対処」する覚悟を持たなければならず、現憲法下でそれが可能だとは考えられないし、それはつまりまだ日.本がとても多文化に対応できない国であり社会体制だということを表しているのだと思う。せめてウチの「左派」による議論の封じ込め、国民的コンセンサスの形成不全が解消されるまでは、少なくとも移民や難民の受け入れを外から言われるまま、過度に行うべきではないと正直感じる。
PR
追記を閉じる▲
まず最近の件で、フ○ンスと日.本の大きな違いは何だろうか、と考えてみた。仏はテロの後、すぐにシ○アで空爆を行った。右翼も左翼も、誰もそれに異を唱えなかった。植民地も含め多文化・多宗教との関わりを長く持ち、移民との共存も当たり前だからこそ、いざ彼らとの間に「問題」が起こった際の対処や、それに対する覚悟がある程度「国民(祖国と戦う事態になるかもしれない移民自身も含め)」全員に浸透していた、ってことなんだろう。そんな中で、いくら難民を受け入れようと、外から入ってきた「国民」の割合が増えようと国としてのそのコンセンサスをこれからも維持し続けられる、と考えてるのが左翼で(つまり受け入れるけど何かあったら彼らの祖国との戦争も辞さない)、彼らを受け入れることでそうなるかもしれない事態の発生を少しでも食い止めよう、可能性を低めようと訴えているのが右翼。どちらも「国を憂う」という気持ちは本物ですね。ただそこに人道・博愛主義というエッセンスを加えるか、綺麗事は捨て「彼ら」と「私たち」の線引きをハッキリ付けた上で「私たち」の身を守ることを最優先に考えるか、って違いだけ。
一方で日本はどうだろうか。元々あった島国独特のマレビトに対する捉え方と、敗戦国として若干歪められて入ってきたリベラリズム(何故か戦争への贖罪や自虐とセット→つまりとにかくどんな事態が起ころうとも戦争=悪、絶対ダメ、という@遠い目( ̄д ̄;))によって、外国にルーツを持つ人々や多文化を擁護するような勢力は、「問題」が起きた時の対処法について考えることすら失礼、とでも言うかのように思考を停止させてしまった。そもそも多文化は当たり前に共生できるもので、「問題」が起きたとすれば彼らを完全に「受け入れられなかった」私たちの方が悪い、と。議論が不可能な土壌を作り出してしまったわけです。だから初めから移民や難民に対しては極端な完全排除派が力を増す。一方で右翼と言われている与党は、高齢化問題を解決するため(+外圧へのアピールのため)に一定数の移民を試験的に導入することを謡い始めている。この、彼らとの共生によって起こり得るかもしれない事態への対処、国民的コンセンサスの議論が実質的に封じられた状態でそれを実行に移すのは極めて危険なことじゃないのか?と個人的には思う。
関.東大震.災時のことを考えても、日/本は災害が多い国。土着的アニミズムと深く結び付いた神/道においては、自然はカミであり、災害はカミの怒り=地にそぐわぬマレビト(しかも異教徒)のもたらしたもの、という発想に行き着きやすい。直近の東日/本大震/災の例を考えるとそういう古来からの思想的排外主義から生じる危険、というのは大分減ってきたようには感じるけど、仮にテロのような悪意を持った「マレビト」による作為的事態が起こった場合に私たちが過激主義に走らずに済むか、また報復か忍耐か、という点について国論が二分せずに済むか、と考えると正直言って恐ろしいです。まさに「犯人」の狙い通りの混乱をきたす構図しか思い浮かばない。「他者」を受け入れるに当たってはあくまでも「報復」ではなく「対処」する覚悟を持たなければならず、現憲法下でそれが可能だとは考えられないし、それはつまりまだ日.本がとても多文化に対応できない国であり社会体制だということを表しているのだと思う。せめてウチの「左派」による議論の封じ込め、国民的コンセンサスの形成不全が解消されるまでは、少なくとも移民や難民の受け入れを外から言われるまま、過度に行うべきではないと正直感じる。
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック