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正直言ってフツーだった。
やっぱり日本人の作品は日本人にしか撮れないのかもしれない、と『太陽』を観た時とは真逆の感想を覚えた。スコセッシだから、大きな失敗やガッカリはないです。俳優の演技(特にイッセー尾形は期待通り過ぎ!フェレイラはもっと薄汚くてくたびれ果ててるキャラでも良かった)やアレンジも想定の範囲内で許せるレベル。でも、最も大事な主人公の内なる神への問いかけ「主よ、あなたはなぜ沈黙しておられるのですか?」が、しつっこいまでに登場するこの主題の場面が少なすぎる気がした。映像で見せるのが映画という作品だから仕方ないけど、主人公の一人称で書かれている作品なのに主人公の心情の吐露というか必死に一人で神に、師に、日本に問いかけているモノローグが無さすぎて彼が棄教に至るまでの苦悩や煩悶が十分に伝えきれていなかったように原作ヘビー読者としては思いました。波やうめき声の臨場感や恐怖は音と画がある分感じるとこもあったけどさ。「その後」が蛇足だったのかどうかは判断がつきかねます。減らしたモノローグをあの十字架で補ったのか、でもやはりその表現は日本人的ではないし、キチジローとロドリゴの関係と結末に白黒をつけることをしてほしくなかった。言葉でも頭でも感情でも信仰でも信条でもくくれない、割り切れない縁や絆があるんだ、ってことを己をモデルにしたキチジローと「最後の司祭・転びのポーロ」に遠藤先生は見出だしたかったんだと思うから。
今回の作品が心に刺さらなかった理由の一つに、父の死があります。彼を追いつめた一因の中で、自分がしてきたことは小さくないウエイトを占めていると思うから、私はこれから先一生自分を責めるし後悔する。真っ白な骨を見た時、「こんなに綺麗で真っ白なものになれるんだ、これが人間・生き物の本質なんだ」と逃げたいとかではなく改めて死に惹かれる気持ちを強く感じたし、やっぱり自分が生まれてくるべきではなかった、間違った存在だという思いは強くなるばかりです。けど、これ以上母に辛い思いをさせ、親戚に迷惑をかけるわけにはいかないので。何とか生きないといけないから、一つ目標を設定することにしました。追納が終わって母の年金受給が始まり、父の債務を返し終えたら海外の子の里親になる。今の日本で私のような人間が養子を持つことや、里親になってこの社会に立派に子供を送り出す、というのは無理なので、色々調べて少しだけ恵まれない国の子となら遠いけど繋がれるかもしれない。私も子供の成長を見守れるかもしれない。例え触れ合うことができなくても。それを目標に何とか頑張っていきたいです。
今国木田さんを読んでいて、彼の見る人の死に父を、それを見る主人公の視点に自分を置いて救われたり共感したりしている。「自殺は決心であり、自滅は流れに身を委せること」みたいなセリフがあって、私はまさにそれかもしれない、と思った。もう死ねなくなってしまった。「気が触れた」と考えられたならどんなに楽だろう。または宗教に走れたなら。私、信仰は一部の人には有益で必要なもので差別はしない、尊重しようと考えてきましたが、ハッキリ言って軽蔑の念を捨てきれません。今生きてる人生や苦しみや自分自身の選択の結果からの最大の逃避だ。神なんていない、神の声は自分の本音に過ぎないのに、責任逃れしやがって。苦しんでるごっこに浸ってんじゃねぇ。『沈黙』のラストクレジット「全ての日本人のキリスト教徒とその信仰に捧ぐ」ふざけんな。うちの祖母なんか住み慣れた故郷離れて夫亡くして引き取った先の息子一家が困窮したからって折角慣れた土地からまた更に遠くに引き取られて。教会もない場所で、結局息子も喪って火葬にも立ち会えず。何のための信仰なの? 死んで天の国に迎えられないと救いがないなんて詐欺も良いとこ。死んだら何も残らないよ!
あと宗教軽蔑の対象と同時にイデオロギーは、特に紅いのは一生憎みます。死んだ後も残る負の一念があるとすれば奴らへの憎しみだけだ。絶対許さない。最後までどんだけ奪われて吸いつくされてきたんだよ。貧乏人から巻き上げて更に貧乏な人たちを騙す、格差社会の隣と変わらない、あの党の体質が許せない。上だけ要領よく立ち回って甘い汁吸いやがって。ハッキリ金持ちの側に立って持てるとこからの上納金で回してる政党の方がはるかにマシだ。持てるとこには周りの目も厳しいから、行き過ぎるとさすがに建前民主主義では「主権者」からのブレーキかかるし。信じられないです。葬儀屋の向こうに党の事務所があったこと、整理してる最中に出てきたお金まとめて持ってかれそうになったことはずっと忘れない。あの意味のない機関誌代、もう読む人いないのに払わされそうになったことも。半ば無理やり頼まされたM商の葬儀屋の酷さも。役所のろくでもなさも。
今の職場で良かった。少人数で色々聞かれる煩わしさも気遣いもない。でも労りと、親を見送った経験のある人生の先輩方が近いところにいてくれる。私と同じ世代のお子さんがいて気にかけてくれたり。人の生き死にに関係する仕事でもあるから辛いときもあるけど、仕事してるおかげで何とか母も扶養にできるし手続きとか片付けから逃げられる。逃げてばっかです。何もかもが遅すぎた。もっと早く自分に向き合っていれば良かった。認めて、話して、どうするか決めるべきだった。もし母が父を見棄てても、私は面倒見るつもりでした。何見ても思い出ばっかり過るのに最後に交わした言葉が、一緒にいたはずの時間のことが思い出せない。後悔だらけ。何で、どうして、って考えたくないから、とにかく仕事出て、色々手続きやったり調べたり家族のフォローしたり。一番キツイ仕事をまだ学生の弟に任せっぱなしなのがつらい。妹だってこれから退職と結婚を控えているのに。弟、今からやっと就職して初めて家出る直前にこれですよ。申し訳なさすぎて消えたい。どう償って良いかわからないから、とにかく出来る限り仕事して、母を養って・・・と考えてはいるのですが自信がない。
誰か引きこもりが社会復帰から1年経たずに扶養抱えるまでのドラマ化してほしいくらい。引きこもりの皆さんに心から言いたい、親はいつまでも生きてない。年金受け取れるのは母親だけだし総合的な金額は減る。更に母親まで死んだらどうすんの? あとは自分で生きてくしかない。死ぬエネルギーと生きるエネルギーはどっちが大きいのか私には分からないので、ぜひネットなどで事前に調べて結局迷惑かけることになる親戚の性格やコスパなど考えた上で検討されるのがよろしいかと存じます。
今回の作品が心に刺さらなかった理由の一つに、父の死があります。彼を追いつめた一因の中で、自分がしてきたことは小さくないウエイトを占めていると思うから、私はこれから先一生自分を責めるし後悔する。真っ白な骨を見た時、「こんなに綺麗で真っ白なものになれるんだ、これが人間・生き物の本質なんだ」と逃げたいとかではなく改めて死に惹かれる気持ちを強く感じたし、やっぱり自分が生まれてくるべきではなかった、間違った存在だという思いは強くなるばかりです。けど、これ以上母に辛い思いをさせ、親戚に迷惑をかけるわけにはいかないので。何とか生きないといけないから、一つ目標を設定することにしました。追納が終わって母の年金受給が始まり、父の債務を返し終えたら海外の子の里親になる。今の日本で私のような人間が養子を持つことや、里親になってこの社会に立派に子供を送り出す、というのは無理なので、色々調べて少しだけ恵まれない国の子となら遠いけど繋がれるかもしれない。私も子供の成長を見守れるかもしれない。例え触れ合うことができなくても。それを目標に何とか頑張っていきたいです。
今国木田さんを読んでいて、彼の見る人の死に父を、それを見る主人公の視点に自分を置いて救われたり共感したりしている。「自殺は決心であり、自滅は流れに身を委せること」みたいなセリフがあって、私はまさにそれかもしれない、と思った。もう死ねなくなってしまった。「気が触れた」と考えられたならどんなに楽だろう。または宗教に走れたなら。私、信仰は一部の人には有益で必要なもので差別はしない、尊重しようと考えてきましたが、ハッキリ言って軽蔑の念を捨てきれません。今生きてる人生や苦しみや自分自身の選択の結果からの最大の逃避だ。神なんていない、神の声は自分の本音に過ぎないのに、責任逃れしやがって。苦しんでるごっこに浸ってんじゃねぇ。『沈黙』のラストクレジット「全ての日本人のキリスト教徒とその信仰に捧ぐ」ふざけんな。うちの祖母なんか住み慣れた故郷離れて夫亡くして引き取った先の息子一家が困窮したからって折角慣れた土地からまた更に遠くに引き取られて。教会もない場所で、結局息子も喪って火葬にも立ち会えず。何のための信仰なの? 死んで天の国に迎えられないと救いがないなんて詐欺も良いとこ。死んだら何も残らないよ!
あと宗教軽蔑の対象と同時にイデオロギーは、特に紅いのは一生憎みます。死んだ後も残る負の一念があるとすれば奴らへの憎しみだけだ。絶対許さない。最後までどんだけ奪われて吸いつくされてきたんだよ。貧乏人から巻き上げて更に貧乏な人たちを騙す、格差社会の隣と変わらない、あの党の体質が許せない。上だけ要領よく立ち回って甘い汁吸いやがって。ハッキリ金持ちの側に立って持てるとこからの上納金で回してる政党の方がはるかにマシだ。持てるとこには周りの目も厳しいから、行き過ぎるとさすがに建前民主主義では「主権者」からのブレーキかかるし。信じられないです。葬儀屋の向こうに党の事務所があったこと、整理してる最中に出てきたお金まとめて持ってかれそうになったことはずっと忘れない。あの意味のない機関誌代、もう読む人いないのに払わされそうになったことも。半ば無理やり頼まされたM商の葬儀屋の酷さも。役所のろくでもなさも。
今の職場で良かった。少人数で色々聞かれる煩わしさも気遣いもない。でも労りと、親を見送った経験のある人生の先輩方が近いところにいてくれる。私と同じ世代のお子さんがいて気にかけてくれたり。人の生き死にに関係する仕事でもあるから辛いときもあるけど、仕事してるおかげで何とか母も扶養にできるし手続きとか片付けから逃げられる。逃げてばっかです。何もかもが遅すぎた。もっと早く自分に向き合っていれば良かった。認めて、話して、どうするか決めるべきだった。もし母が父を見棄てても、私は面倒見るつもりでした。何見ても思い出ばっかり過るのに最後に交わした言葉が、一緒にいたはずの時間のことが思い出せない。後悔だらけ。何で、どうして、って考えたくないから、とにかく仕事出て、色々手続きやったり調べたり家族のフォローしたり。一番キツイ仕事をまだ学生の弟に任せっぱなしなのがつらい。妹だってこれから退職と結婚を控えているのに。弟、今からやっと就職して初めて家出る直前にこれですよ。申し訳なさすぎて消えたい。どう償って良いかわからないから、とにかく出来る限り仕事して、母を養って・・・と考えてはいるのですが自信がない。
誰か引きこもりが社会復帰から1年経たずに扶養抱えるまでのドラマ化してほしいくらい。引きこもりの皆さんに心から言いたい、親はいつまでも生きてない。年金受け取れるのは母親だけだし総合的な金額は減る。更に母親まで死んだらどうすんの? あとは自分で生きてくしかない。死ぬエネルギーと生きるエネルギーはどっちが大きいのか私には分からないので、ぜひネットなどで事前に調べて結局迷惑かけることになる親戚の性格やコスパなど考えた上で検討されるのがよろしいかと存じます。
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今回の作品が心に刺さらなかった理由の一つに、父の死があります。彼を追いつめた一因の中で、自分がしてきたことは小さくないウエイトを占めていると思うから、私はこれから先一生自分を責めるし後悔する。真っ白な骨を見た時、「こんなに綺麗で真っ白なものになれるんだ、これが人間・生き物の本質なんだ」と逃げたいとかではなく改めて死に惹かれる気持ちを強く感じたし、やっぱり自分が生まれてくるべきではなかった、間違った存在だという思いは強くなるばかりです。けど、これ以上母に辛い思いをさせ、親戚に迷惑をかけるわけにはいかないので。何とか生きないといけないから、一つ目標を設定することにしました。追納が終わって母の年金受給が始まり、父の債務を返し終えたら海外の子の里親になる。今の日本で私のような人間が養子を持つことや、里親になってこの社会に立派に子供を送り出す、というのは無理なので、色々調べて少しだけ恵まれない国の子となら遠いけど繋がれるかもしれない。私も子供の成長を見守れるかもしれない。例え触れ合うことができなくても。それを目標に何とか頑張っていきたいです。
今国木田さんを読んでいて、彼の見る人の死に父を、それを見る主人公の視点に自分を置いて救われたり共感したりしている。「自殺は決心であり、自滅は流れに身を委せること」みたいなセリフがあって、私はまさにそれかもしれない、と思った。もう死ねなくなってしまった。「気が触れた」と考えられたならどんなに楽だろう。または宗教に走れたなら。私、信仰は一部の人には有益で必要なもので差別はしない、尊重しようと考えてきましたが、ハッキリ言って軽蔑の念を捨てきれません。今生きてる人生や苦しみや自分自身の選択の結果からの最大の逃避だ。神なんていない、神の声は自分の本音に過ぎないのに、責任逃れしやがって。苦しんでるごっこに浸ってんじゃねぇ。『沈黙』のラストクレジット「全ての日本人のキリスト教徒とその信仰に捧ぐ」ふざけんな。うちの祖母なんか住み慣れた故郷離れて夫亡くして引き取った先の息子一家が困窮したからって折角慣れた土地からまた更に遠くに引き取られて。教会もない場所で、結局息子も喪って火葬にも立ち会えず。何のための信仰なの? 死んで天の国に迎えられないと救いがないなんて詐欺も良いとこ。死んだら何も残らないよ!
あと宗教軽蔑の対象と同時にイデオロギーは、特に紅いのは一生憎みます。死んだ後も残る負の一念があるとすれば奴らへの憎しみだけだ。絶対許さない。最後までどんだけ奪われて吸いつくされてきたんだよ。貧乏人から巻き上げて更に貧乏な人たちを騙す、格差社会の隣と変わらない、あの党の体質が許せない。上だけ要領よく立ち回って甘い汁吸いやがって。ハッキリ金持ちの側に立って持てるとこからの上納金で回してる政党の方がはるかにマシだ。持てるとこには周りの目も厳しいから、行き過ぎるとさすがに建前民主主義では「主権者」からのブレーキかかるし。信じられないです。葬儀屋の向こうに党の事務所があったこと、整理してる最中に出てきたお金まとめて持ってかれそうになったことはずっと忘れない。あの意味のない機関誌代、もう読む人いないのに払わされそうになったことも。半ば無理やり頼まされたM商の葬儀屋の酷さも。役所のろくでもなさも。
今の職場で良かった。少人数で色々聞かれる煩わしさも気遣いもない。でも労りと、親を見送った経験のある人生の先輩方が近いところにいてくれる。私と同じ世代のお子さんがいて気にかけてくれたり。人の生き死にに関係する仕事でもあるから辛いときもあるけど、仕事してるおかげで何とか母も扶養にできるし手続きとか片付けから逃げられる。逃げてばっかです。何もかもが遅すぎた。もっと早く自分に向き合っていれば良かった。認めて、話して、どうするか決めるべきだった。もし母が父を見棄てても、私は面倒見るつもりでした。何見ても思い出ばっかり過るのに最後に交わした言葉が、一緒にいたはずの時間のことが思い出せない。後悔だらけ。何で、どうして、って考えたくないから、とにかく仕事出て、色々手続きやったり調べたり家族のフォローしたり。一番キツイ仕事をまだ学生の弟に任せっぱなしなのがつらい。妹だってこれから退職と結婚を控えているのに。弟、今からやっと就職して初めて家出る直前にこれですよ。申し訳なさすぎて消えたい。どう償って良いかわからないから、とにかく出来る限り仕事して、母を養って・・・と考えてはいるのですが自信がない。
誰か引きこもりが社会復帰から1年経たずに扶養抱えるまでのドラマ化してほしいくらい。引きこもりの皆さんに心から言いたい、親はいつまでも生きてない。年金受け取れるのは母親だけだし総合的な金額は減る。更に母親まで死んだらどうすんの? あとは自分で生きてくしかない。死ぬエネルギーと生きるエネルギーはどっちが大きいのか私には分からないので、ぜひネットなどで事前に調べて結局迷惑かけることになる親戚の性格やコスパなど考えた上で検討されるのがよろしいかと存じます。
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