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「面を上げよ」
初めに響いた声は通詞のそれより随分と若い。顔を上げた春椛と弟の春光は、そこで彼らより幾らか年かさに見えるはずの西の王の姿に目を見張った。背後には今や忌々しい仇と化した、隣国の女が控えている。お笑い草だ――悪趣味な“東洋趣味”に覆われた部屋の中には、彼らの国のそれよりもいささか控えめに香の匂いが漂っている。それがまた、この場の異様さを増していた。正式な謁見など認められぬ彼らが頼らざるを得なかった唯一の糸は、屈辱的なことにかの女の情けだった。環と組んだ、否、強引に巻き込まれた戦に敗れて後、燐の地には動乱が続いた。環・帝国・西の勢力の三すくみに対する見解の食い違いからただでさえ揉めていた王子たちの内、環との結び付きを積極的・肯定的に進めていた王太子・春藍は戦死。その悲しみに憔悴し斃れた王の後継を巡って第二王子・春光と未だ幼い第三王子・春寒を要する一派が争う中、突如進攻してきた北方の羅須族に燐の北部は占拠された。慌てて帝国に訴え出ようとした燐の王城に届いたものは、
『北燐を羅須族の領土と認め、これに従う統治者として旧燐国第三王子・春寒を任じる』
という都からの手酷い報復だった。帝国にとっては己を裏切った燐への制裁であり、徐々に力を増す北の蛮族への“砦”の構築をも目的としていたのだろう。だが長兄が亡くなった以上、次に燐を支配すべきは己だと信じてきた第二王子・春光はそれを許しがたい暴挙と捉えた。
「我が国を分断するだと!? 環のために戦に巻き込まれ……たかが“太守”の奴隷のように扱われ、その果てがこれか! 兄上は本当に何と愚かな過ちを……! だが最早こうなれば、帝国には頼れまい」
屈辱を飲み、彼は覚悟を決めて西の地へ赴く――かつて血で血を洗うほどの激しい戦をした敵の元へ、燐が被害を被った証としての姉を連れて。
「我らは環に組することも戦を起こすことも、何も望んではおりませんでした。気づけば無理に組み込まれ、虐げられて……挙句国土を奪われるとは、余りのことにございませぬか。どうか貴国の優れた正義と平等の名の元に、我が国にご助力いただきたいのです」
憎々しげな鋭い眼差しが、国王であるフェリクスを通り越して背後の女――雪夏へと注がれた。それを遮るように、年若い王の白く大きな手が舞う。
「南燐の権益は認めよう。あなた方は他のどの国からも独立した存在として我がオーデンが味方につく。自治領である環と共に、誤った慣習を続ける国々への砦として邁進してもらいたい」
牽制の込められた言質を受け取り、春光は嗤った。なるほど確かに“彼ら”にとって果ての地は、己が手の中に確かに掴んでおきたい玉なのだろう。だが――
「陛下には随分と“東”の女がお気に入りのご様子。傷があっても構わないとおっしゃるなら、ここにおります我が姉も、お役に立つかと存じますが……」
春椛自身が弟の揶揄に気づく前に、西の王は不愉快そうに顔を歪めて立ち上がった。
「……僕は別に、黄色が好きなわけじゃない」
初めて見せた年相応の王の表情と共に吐き捨てられた言葉の意味を解さぬまま、彼女は顔を上げた。
「待って!」
立ち去ろうとする青年の太い腕に抱かれた背中に、春椛は声を張り上げた。
「夏月は……あの人はどこにいるの?」
わずかに振り向いた黒の瞳が、みるみる内に大きく見開く。
「……最後まで父と共に城に在ったと、そう聞いております」
絞り出すようなその声に、雪夏は主の腕をそっと払い、真っ直ぐに震える女へ歩み寄った。
「死んだって言うの? そんなの嘘! ならば何故、骨の一つも見つからないの? 辞世の句も、遺言だって残っていやしない。許せない……許せないわ、私は言ってやりたいことが沢山あるのに」
すっと伸びた目じりから滴った雫が、女の衣をかすめて落ちる。幼い頃から見知った彼女の嘆きに雪夏はそっと目を細め、痛ましげに瞼を閉じた。言いたいことも、言えないことも――複雑に絡み合う感情が、二人の間を行き来する。何て変わってしまったのだろう、手を繋いで花輪を編んだ娘たちは。
「セッカ、もう良い。彼女には環が手厚い償いをするだろうし、僕らも助けるよ。さぁ行こう、身体に障る……」
身重の“妻”を慮るように優しく手を引く青年の姿を見て、春光は反吐を吐きそうな唇を懸命に噛みしめ、体を小さく震わせた。元々帝国へ反旗を翻すことに否定的だった彼の立場からすれば燐をそちら側へと追い込んだ環の所業は完全なる悪であり、実際に戦の結果は惨憺たる有様で、西の夷に頭を下げるような事態にまで陥ってしまった。全ての因果を作り出した憎い隣国の、更には夫の仇の妾に身を落とすような輩を不快に思わずにいられようか。あまつさえ彼らの価値観の何もかもを壊しておきながら、雪夏は泰然とその立場に甘んじているように見えるのだ。
一方で姉の春椛はそのような弟の苛立ちなど気にも留めず、うつむき静かにその場に佇んでいた。恥辱も打算も憤りもなく――いや恐らくはそれすら超えて、彼女はただ一人の男のことを考えていた。彼の行方を聞くためだけに、春椛ははるばる西の地へとやってきたのだから。
「夏月……」
呟きが響いた途端、弟の顔は奇妙に歪む。
「姉上、いい加減にいたしませぬか! オーデンの王の前でいらぬ恥をかいた!」
春光の怒りは当然のことだ。夏月、それは春椛の夫であった男の名。彼女が強いて縁付けられた、環の国の兵士の名。婚姻を以て環と燐の融合を図り、間に生まれた子を王にする――その約定を環が裏切った、燐にとっての屈辱の象徴。彼は太守の家筋でも貴族の血を引く訳でもない、ただの兵、ただの男だったのだ。だからこそこれほどに、春椛は執着するのだろうか。“王族”としてではない“春椛”という女ただ一人が手に入れた、たった一つのものだったから。この地の青く冷えた空は、慣れ親しんだ白い花の季節を、どこか思い起こさせる。
~~~
東の果てでは夏の日差しが段々と弱まっていき、空気が澄んで冷えていく頃が最も過ごしやすい時期とされる。普段は思うように外出もままならない春椛が久しぶりに連れ出された街の外では、無窮花が盛りと花を付けていた。この地にも故郷と同じ花が咲くのか、と思わず母国の名を口にした春椛の肩を、あの日の夫は強く引きつかんで止めた。
『ここは環だ、それは木槿と呼ぶ』
しかつめらしい顔をした彼の言葉にうつむく彼女の耳元に、夏月は
『申し訳ありません……けれど自分は、軍人なのです』
と小さく、流暢な西の言葉で囁いた。二人の傍には、常に“影”の気配があったから――
幼かった昔、春椛の夢は天子様の後宮に上ることだった。彼女が生を受けた燐の国は東の帝の血を引く“王”の統べる国であり、元々帝の臣として遣わされてきた“太守”や現地の民から選ばれた長が任じられる“首長”の治める近隣の国・環や練とは異なるという自負が培われてきたからだ。王家の姫だけが立つことのできる后の位に昇ることを、少女はいつも夢見てきた――例え“帝国”の権威が形だけのものになりつつある中でも、顔見知りの太守の娘が婚約し西に旅立ってしまっても。己だけは違う、燐だけは異なるのだ、最後まで天子様に忠義を尽くし、決して西に迎合などしない。そう考えてきた春椛の思いを裏切ったのはあの日の兄のたった一言。
『そなた、環へ嫁げ。我が国は今日より帝国から独立した環と行動を共にする』
寄せられた眉に、低い声音。いつになく厳しい態度だった。
『お待ち下さい、兄上! 我が国は天子様の血を引く由緒正しい王の血筋ではございませぬか。西に媚びへつらい、その色に染まったあのような国に、何故姉上を……!』
ガタリと立ち上がり声を上げた第二王子・春光をたしなめるように、今度は父王が大きく咳払いをした。
『環はその王の血を望んでおる。よく聞け、春椛。これはかねてより環と協議していたことなのだ。環側は我が国と統合した暁におまえの子を王に据えても良いと言うてきておる。否、むしろ“そうするため”に儂はこの案を呑んだのだ』
驚きにピクリと跳ねた娘の瞳を、王は真っ直ぐに覗き込んだ。
『環には西の知恵と技術がある……何、所詮は夷、完全に取り入ることは叶わなかったようだが、西と通じたことで帝国の反感を買い、この地で孤立した環を取りこんでおくに悪いことは無い』
『それのみならず、帝国は今、北の羅須にも脅かされている。北とも境を接する我が国が環と羅須、双方に責め立てられたとて……都が救いの手を差し伸べるとは思えぬ。そんな余裕があるとは、な』
父の言を継ぐように重ねられた兄の言葉が、その場を静まりかえらせる。世継ぎとして都に遣わされ、学問と知見を得るため三年の時を彼の地で過ごした彼の言は重く不気味に鼓膜を揺らした。
『ですが……ですが兄様、雪夏は、環の太守の娘はこちらに戻ってきたのではありませぬか? それは……それは』
環は独立の後ろ盾であったはずの西の大国と決別し、帝国だけでなく彼らまで敵に回したのでは――? 円満な結末であるならともかく、戻ってきた彼女はすぐに他国へ嫁ぎ、環は軍備の増強を急ぎつつあるとのきなくさい噂が、女たちの口端にまで上がっている。ならばその隣に位置し、帝国の中でもさほど大きいとは言えない立場の燐が環と結ぶことは、果たして得策と言えるのか。
『仕方あるまい……望むと望まざると、いずれこの地は戦場になる』
それは不吉な予言。避けられない運命だと、兄は考えていたのだろうか。誰かを――何かを責めたくなる弟の思いは嫌と言うほどわかる。けれど、今となっては……。吹きすさぶ風に紅い葉の舞う姿が視界の端に過った気がして、春椛は窓の外へ目を凝らした。かの木はこの地の土では育ちにくいものだろうに、よもや彼女が持ち込んだものだろうか。それとも”彼”が、この不自然に歪んだ空間と同じ意図で――?
瞳を閉じれば鮮やかによみがえる、紅と白の鮮やかな対比。やはり自分はあの花を思い出さずにはいられない、と彼女は目を瞬かせる。染まりゆく山際、冷えて澄みゆく風に、白い花と紅の椛。完成された世界であったように思う、決して混じり合えない、それでいて全てが共存していたあの一瞬は。どちらにしろ失われてしまったもの、後に残るのは一文字の感情のみ。憎しみと似ていて違う、ただひたすらに面影を、消えることなど、忘れることなど許さないと想う気持ち――例え何が相手でも、己自身に対してさえ。
→後書き
関連作:夏に灼かれし
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「面を上げよ」
初めに響いた声は通詞のそれより随分と若い。顔を上げた春椛と弟の春光は、そこで彼らより幾らか年かさに見えるはずの西の王の姿に目を見張った。背後には今や忌々しい仇と化した、隣国の女が控えている。お笑い草だ――悪趣味な“東洋趣味”に覆われた部屋の中には、彼らの国のそれよりもいささか控えめに香の匂いが漂っている。それがまた、この場の異様さを増していた。正式な謁見など認められぬ彼らが頼らざるを得なかった唯一の糸は、屈辱的なことにかの女の情けだった。環と組んだ、否、強引に巻き込まれた戦に敗れて後、燐の地には動乱が続いた。環・帝国・西の勢力の三すくみに対する見解の食い違いからただでさえ揉めていた王子たちの内、環との結び付きを積極的・肯定的に進めていた王太子・春藍は戦死。その悲しみに憔悴し斃れた王の後継を巡って第二王子・春光と未だ幼い第三王子・春寒を要する一派が争う中、突如進攻してきた北方の羅須族に燐の北部は占拠された。慌てて帝国に訴え出ようとした燐の王城に届いたものは、
『北燐を羅須族の領土と認め、これに従う統治者として旧燐国第三王子・春寒を任じる』
という都からの手酷い報復だった。帝国にとっては己を裏切った燐への制裁であり、徐々に力を増す北の蛮族への“砦”の構築をも目的としていたのだろう。だが長兄が亡くなった以上、次に燐を支配すべきは己だと信じてきた第二王子・春光はそれを許しがたい暴挙と捉えた。
「我が国を分断するだと!? 環のために戦に巻き込まれ……たかが“太守”の奴隷のように扱われ、その果てがこれか! 兄上は本当に何と愚かな過ちを……! だが最早こうなれば、帝国には頼れまい」
屈辱を飲み、彼は覚悟を決めて西の地へ赴く――かつて血で血を洗うほどの激しい戦をした敵の元へ、燐が被害を被った証としての姉を連れて。
「我らは環に組することも戦を起こすことも、何も望んではおりませんでした。気づけば無理に組み込まれ、虐げられて……挙句国土を奪われるとは、余りのことにございませぬか。どうか貴国の優れた正義と平等の名の元に、我が国にご助力いただきたいのです」
憎々しげな鋭い眼差しが、国王であるフェリクスを通り越して背後の女――雪夏へと注がれた。それを遮るように、年若い王の白く大きな手が舞う。
「南燐の権益は認めよう。あなた方は他のどの国からも独立した存在として我がオーデンが味方につく。自治領である環と共に、誤った慣習を続ける国々への砦として邁進してもらいたい」
牽制の込められた言質を受け取り、春光は嗤った。なるほど確かに“彼ら”にとって果ての地は、己が手の中に確かに掴んでおきたい玉なのだろう。だが――
「陛下には随分と“東”の女がお気に入りのご様子。傷があっても構わないとおっしゃるなら、ここにおります我が姉も、お役に立つかと存じますが……」
春椛自身が弟の揶揄に気づく前に、西の王は不愉快そうに顔を歪めて立ち上がった。
「……僕は別に、黄色が好きなわけじゃない」
初めて見せた年相応の王の表情と共に吐き捨てられた言葉の意味を解さぬまま、彼女は顔を上げた。
「待って!」
立ち去ろうとする青年の太い腕に抱かれた背中に、春椛は声を張り上げた。
「夏月は……あの人はどこにいるの?」
わずかに振り向いた黒の瞳が、みるみる内に大きく見開く。
「……最後まで父と共に城に在ったと、そう聞いております」
絞り出すようなその声に、雪夏は主の腕をそっと払い、真っ直ぐに震える女へ歩み寄った。
「死んだって言うの? そんなの嘘! ならば何故、骨の一つも見つからないの? 辞世の句も、遺言だって残っていやしない。許せない……許せないわ、私は言ってやりたいことが沢山あるのに」
すっと伸びた目じりから滴った雫が、女の衣をかすめて落ちる。幼い頃から見知った彼女の嘆きに雪夏はそっと目を細め、痛ましげに瞼を閉じた。言いたいことも、言えないことも――複雑に絡み合う感情が、二人の間を行き来する。何て変わってしまったのだろう、手を繋いで花輪を編んだ娘たちは。
「セッカ、もう良い。彼女には環が手厚い償いをするだろうし、僕らも助けるよ。さぁ行こう、身体に障る……」
身重の“妻”を慮るように優しく手を引く青年の姿を見て、春光は反吐を吐きそうな唇を懸命に噛みしめ、体を小さく震わせた。元々帝国へ反旗を翻すことに否定的だった彼の立場からすれば燐をそちら側へと追い込んだ環の所業は完全なる悪であり、実際に戦の結果は惨憺たる有様で、西の夷に頭を下げるような事態にまで陥ってしまった。全ての因果を作り出した憎い隣国の、更には夫の仇の妾に身を落とすような輩を不快に思わずにいられようか。あまつさえ彼らの価値観の何もかもを壊しておきながら、雪夏は泰然とその立場に甘んじているように見えるのだ。
一方で姉の春椛はそのような弟の苛立ちなど気にも留めず、うつむき静かにその場に佇んでいた。恥辱も打算も憤りもなく――いや恐らくはそれすら超えて、彼女はただ一人の男のことを考えていた。彼の行方を聞くためだけに、春椛ははるばる西の地へとやってきたのだから。
「夏月……」
呟きが響いた途端、弟の顔は奇妙に歪む。
「姉上、いい加減にいたしませぬか! オーデンの王の前でいらぬ恥をかいた!」
春光の怒りは当然のことだ。夏月、それは春椛の夫であった男の名。彼女が強いて縁付けられた、環の国の兵士の名。婚姻を以て環と燐の融合を図り、間に生まれた子を王にする――その約定を環が裏切った、燐にとっての屈辱の象徴。彼は太守の家筋でも貴族の血を引く訳でもない、ただの兵、ただの男だったのだ。だからこそこれほどに、春椛は執着するのだろうか。“王族”としてではない“春椛”という女ただ一人が手に入れた、たった一つのものだったから。この地の青く冷えた空は、慣れ親しんだ白い花の季節を、どこか思い起こさせる。
~~~
東の果てでは夏の日差しが段々と弱まっていき、空気が澄んで冷えていく頃が最も過ごしやすい時期とされる。普段は思うように外出もままならない春椛が久しぶりに連れ出された街の外では、無窮花が盛りと花を付けていた。この地にも故郷と同じ花が咲くのか、と思わず母国の名を口にした春椛の肩を、あの日の夫は強く引きつかんで止めた。
『ここは環だ、それは木槿と呼ぶ』
しかつめらしい顔をした彼の言葉にうつむく彼女の耳元に、夏月は
『申し訳ありません……けれど自分は、軍人なのです』
と小さく、流暢な西の言葉で囁いた。二人の傍には、常に“影”の気配があったから――
幼かった昔、春椛の夢は天子様の後宮に上ることだった。彼女が生を受けた燐の国は東の帝の血を引く“王”の統べる国であり、元々帝の臣として遣わされてきた“太守”や現地の民から選ばれた長が任じられる“首長”の治める近隣の国・環や練とは異なるという自負が培われてきたからだ。王家の姫だけが立つことのできる后の位に昇ることを、少女はいつも夢見てきた――例え“帝国”の権威が形だけのものになりつつある中でも、顔見知りの太守の娘が婚約し西に旅立ってしまっても。己だけは違う、燐だけは異なるのだ、最後まで天子様に忠義を尽くし、決して西に迎合などしない。そう考えてきた春椛の思いを裏切ったのはあの日の兄のたった一言。
『そなた、環へ嫁げ。我が国は今日より帝国から独立した環と行動を共にする』
寄せられた眉に、低い声音。いつになく厳しい態度だった。
『お待ち下さい、兄上! 我が国は天子様の血を引く由緒正しい王の血筋ではございませぬか。西に媚びへつらい、その色に染まったあのような国に、何故姉上を……!』
ガタリと立ち上がり声を上げた第二王子・春光をたしなめるように、今度は父王が大きく咳払いをした。
『環はその王の血を望んでおる。よく聞け、春椛。これはかねてより環と協議していたことなのだ。環側は我が国と統合した暁におまえの子を王に据えても良いと言うてきておる。否、むしろ“そうするため”に儂はこの案を呑んだのだ』
驚きにピクリと跳ねた娘の瞳を、王は真っ直ぐに覗き込んだ。
『環には西の知恵と技術がある……何、所詮は夷、完全に取り入ることは叶わなかったようだが、西と通じたことで帝国の反感を買い、この地で孤立した環を取りこんでおくに悪いことは無い』
『それのみならず、帝国は今、北の羅須にも脅かされている。北とも境を接する我が国が環と羅須、双方に責め立てられたとて……都が救いの手を差し伸べるとは思えぬ。そんな余裕があるとは、な』
父の言を継ぐように重ねられた兄の言葉が、その場を静まりかえらせる。世継ぎとして都に遣わされ、学問と知見を得るため三年の時を彼の地で過ごした彼の言は重く不気味に鼓膜を揺らした。
『ですが……ですが兄様、雪夏は、環の太守の娘はこちらに戻ってきたのではありませぬか? それは……それは』
環は独立の後ろ盾であったはずの西の大国と決別し、帝国だけでなく彼らまで敵に回したのでは――? 円満な結末であるならともかく、戻ってきた彼女はすぐに他国へ嫁ぎ、環は軍備の増強を急ぎつつあるとのきなくさい噂が、女たちの口端にまで上がっている。ならばその隣に位置し、帝国の中でもさほど大きいとは言えない立場の燐が環と結ぶことは、果たして得策と言えるのか。
『仕方あるまい……望むと望まざると、いずれこの地は戦場になる』
それは不吉な予言。避けられない運命だと、兄は考えていたのだろうか。誰かを――何かを責めたくなる弟の思いは嫌と言うほどわかる。けれど、今となっては……。吹きすさぶ風に紅い葉の舞う姿が視界の端に過った気がして、春椛は窓の外へ目を凝らした。かの木はこの地の土では育ちにくいものだろうに、よもや彼女が持ち込んだものだろうか。それとも”彼”が、この不自然に歪んだ空間と同じ意図で――?
瞳を閉じれば鮮やかによみがえる、紅と白の鮮やかな対比。やはり自分はあの花を思い出さずにはいられない、と彼女は目を瞬かせる。染まりゆく山際、冷えて澄みゆく風に、白い花と紅の椛。完成された世界であったように思う、決して混じり合えない、それでいて全てが共存していたあの一瞬は。どちらにしろ失われてしまったもの、後に残るのは一文字の感情のみ。憎しみと似ていて違う、ただひたすらに面影を、消えることなど、忘れることなど許さないと想う気持ち――例え何が相手でも、己自身に対してさえ。
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