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熱に酔ってるんじゃなくて熱が引いたからこうなっているんじゃ、という。近場の揉め事や震災の影響はもちろん大きいと思うけど、根っこのとこで全体がそういう流れになってきてるのはやっぱり某連合()地域の現状を見て、間接的に「これはちょっと(ry」という気持ちがあるんじゃないか。少なくとも自分はかなり残念だった。共同体とか平和って理想が夢に過ぎなくて、今向き合ってるのは紛れもない現実なんだよな、って。現実はビジネスじゃないですか。損したら食いっぱぐれる。理想に酔う余裕がなくなったというか。外との関係で言えばオートマチックモードだとネガティヴにしか振れない立場だってこととか、震災で命が失われるとか街が壊れるっていうのはどういうことかとか、地面に叩きつけられて色々思い出させられた状態が今なんだろうな、と。現状が熱だと言っている人たちは他に逃げ場があったり、才能だったり地位だったり正直食うに困らないものを持っている人が多いように感じるけど、彼らが「酔わされている」と言っている人たちは、恐らくここで今していることでしか生きていけない立場なわけで。その方がある意味現実が見えている人たちなのかもしれないなぁ、と。色々な視点が必要だし、渦の中にいる人間は上から俯瞰することができないから間違った方に流れてしまうこともあるけど、真ん中の現実と向き合っている人間の選択を、これ以上安易な割り振りというか出来あいのフィルターで見てほしくない、と思います。いやたまにはAを否定するだけじゃなくAを否定するBを懐疑的に見る、かといってAに迎合するわけでもないCの立場を上手いこと表現するメディアとか学者はいないんですかね・・・?と感じる時があるって話(-_-;
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自分の言葉が確立する前にやってもなぁ、と。国語の成績が伸びて初めて英語も良い点取れるようになってきた・・・というのが自分の経験だったのですが。言葉って感情だったり状態だったり景色だったり、見たもの聞いたこと感じたことの全てを表現する基本だから、無理に自分の中に無いものを詰め込もうとしても上手くいかないと思う。母語を探し尽くして使い尽くして「あ、何か足りない」とか「これ違うわー」ってなった時、自然によそへも手を伸ばすようになるから、わざわざ外から与えるもんじゃないと思う。興味がわかないってことはその人の人生に必要ないってことだし。
個人的にタイトルなんかで英語を使うのは、一般に言われてることとは逆で意味を曖昧にしたい時が多いような気がします。日本語はニュアンスごとに細かく単語が設定されてるけど、英語は一語で色んな意味のある言葉が多いから。あと間にスペース入れて二語でも読めるよ、的な部分。(中国では漢字の熟語でもこれができるのかもしれないけど、日本語では意外と難しい。音遊びはしやすいけど)understandとか凄く好きです。「理解する」だと机上の空論というか、数式解いたのかよ、って気分になるけど、「下(もと)に立つ」って本当に相手の側に立つ心があって初めてできることなんだ、と伝わってくる。realizeも「現実として受け止める」という意気込みのある言葉だと思う。言語を楽しむ感覚ってある程度年齢いってから生まれるもんだと思うので、日本みたいな環境の国であんまり早くから“勉強”としてやらされてマイナスのイメージ持ってほしくないな、と言葉好きとして感じます。
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愛には色んなかたちがある。田淵由美子さんの漫画で「愛っていつもきれいなハートの形とは限らないのよ」みたいなセリフがあったのを思い出しました。昔の自分は「何で好きなのにそんなことすんだよ」って突っ込んでたけど、それは私の物差しで測った見方であって、人それぞれ使う物差しは違うんだよね、と改めて。どれほど愛したかはどれほど相手の物差しを受け入れられるか、ってことなのかなー、としみじみ思いました。
お国と源さんが初め可哀想で感情移入しちゃってたけど、結局はあの二人の最期がある意味一番幸せだったんじゃないか。見初めてもらった旦那を裏切って殺してのうのうと伴蔵までたぶらかしながら情夫をかくまってる、酷い女っていう描かれ方だったのかもしれないけど、見方を変えればヘタに美人に生まれついちゃったせいで金持ち親父に弄ばれて、好きになった男はヘタレで、でもそうするしか生きていく術が無い、すっごく哀しくて愛しい女性に見えた。そんな彼女にすがる、彼女を失うことを何より一番恐れている源さんも良い。お国という一人の女にとって人生で初めて自分の思いのままになるものだったんじゃないかな、という共依存萌え!
お嬢さんと新三郎様はしょーもない事の元凶カップルだけど、ヤンデレの原点(・・・いやよく考えたら平安の時点で既にあったか/(^O^)\)だな、と感心しました。新三郎様なんだかんだ最後嬉しそうだったし。お嬢様の後を追うくらい彼女を愛していて、死んでなおその恋を遂げさせようと頑張る乳母の思いに胸打たれました。
そして伴蔵とお峰。初めから不倫でヒール気取りにしかなれないお国と源さんカップルとは違って、貧乏でしょーもないけど和やかに暮らしてた二人の“幽霊事件”後の有り様の対比が何とも言えず切なかったですねー。もう最後泣きそうになった。あそこでやったった!って感じで逃げるパターンかな、とも思ったのですが、お峰を抱きしめて慟哭する供蔵の姿が、「あー、やっぱり人間だなぁ」と。時々手段と目的が入れ替わってしまう、自分の立ち位置がわからなくなる、愚かさと脆さ、不完全ゆえの人間らしさというか。醜くて矛盾だらけでどうしようもないけれど、だからこそ愛しいという気持ちがこみ上げてきます。前半のコミカルさから一転して、陳腐にならなかったのは役者さんの力が大きいせいもあるのかな。
どんな綺麗事言っても世の中はゼロサムゲームにしかならないんだよね。もっと欲しいって思ったら奪るしかないもん。どっかで何かを犠牲にしてるんだ、って自覚した上で生きないとな、と改めて思いました。
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今日久々にすっ転んだけど擦り傷すら負わずに済みましたv(^-^) この歳でようやくコケマスターになれる予感。あと携帯壊れた。失敗連発。でもイヤなことがあった日は「明日は良い日になるといいなぁ」って単純に願えるし前日比で大体そうなるからポジティヴだよね!o(゜∀゜;)o
Aの面でプラスの影響与えたから良いとか、Bの側に酷いことしたから悪いとか、少なくとも自分自身に関してはそういう二元的に考えるもんじゃないだろう。だって自分のことなんだから、何だかんだ言って自分のためだからやってる訳で。無償の奉仕とかはもちろん立派だと思うけど、見方を変えればそうすることで喜ぶ人や良くなる世界に快楽を感じるからこそやってるんだろうなぁ、と。その人にとって全く得るものがない、本当の意味でマイナスだと思ってたらやらないですよね。だから結局は自分のためなんだ、と。Bに責められたからって「でもこっちはこうだもん!」とかAを出して上げる流れはちょっと違和感。客観と主観が変な風にねじり合ってる感じ。本当の主観はもっとこう・・・「こうだからこうしたんだよね」とアッサリ認識してるくらいでちょうど良いんじゃなかろうか。他人にどうこう言われたからって動機だけは変えられないから。元々自分自身は良い/悪いの評価から外れたニュートラルな位置にいるはずだと思うんだけど、逆に言えば“自分のこと”と捉えられないくらい遠ざかってしまったのかな、と考えたりもします。
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個人的にはダシさえ許されれば肉魚食べなくても平気だし、実際しぱらくタンパク源を豆腐に置き換えて暮らしてみたこともある。でも何か、肉食を完全に拒否してしまうのは食物連鎖っていう自然の法則とか、それを食べて生きてきた人の歴史を否定することに繋がりかねない気がしてちょっと躊躇する。人間だって自然の一部なのに、「これは食べて良い・悪い」って決める側になるのは傲慢じゃないか? 人間が食べなくなったものだって何かの命を犠牲にして生きてるんだから、一番上の立場から「はーい二番目の子たち食べるのやめまーす」って言ったら三番目四番目はどうなんの・・・みたいな。命の仕組みや自然に対する敬意が逆に損なわれることになるのでは? あと所詮は代用品が豊富にある状況だけで言えることなんだよなぁ、とも。豆でも虫でも腐ってようがカビてようが、それを食べないと生きていけない環境だったから生まれて、食べ続けないといけなかったから進化して、おいしくなったから愛着持たれて、守られてきた文化になる。そう考えると食って凄いと思うんですよ。忙しいから、他のものが手に入りやすくなったから、って投げ出した人たちが文句言って変えられるほど軽いものじゃない。宗教観・資源の問題も絡んで溝は簡単に埋められないけど、だからこそ改めて何を食べてここまで来たか、食べることの意味を考えていかなきゃなー、と。魚をこよなく愛する国として、社会の教科書に養殖や栽培の特色、メリット/デメリット含めてきちんと載ってるのは素晴らしいと思います(笑)
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