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※長くなりすぎたので『わたしを離さないで』感想と分けましたm(__)m
近所のツ○ヤ行ったら公房さんの本一冊もなくて絶望した!田舎だから?一応(あんまりレベル高くない&保育士とか実践系のだけど)大学も近くにあるのに>< しょうがないから『第四間氷期』 も『壁』の次に狙い定めてポチっとリストに加えときました。うん、今の歪みが向かってしまう対象はコレなんだよなー。 ぶっちゃけ『壁』の次にコレをセレクトしたのは、某番組でフィンラ○ド人高校生が読んだ話してて驚愕したから。某ガ○パン艦○れオタの大学生?といい、ヨーロッパでは珍しくない、って聞きますけどやっぱりウチの妹弟より年下の子が既にマルチリンガルで母国語からかなり遠いはずの、恐らく日.本人の同世代すら何割が読んでるか、って純文を原語で読める上に将来はその言葉を使って小説書きたいとか、どんだけ意識高いの!?(;´д`)と焦ってしまったので(笑)きっと私の歳になる頃には余裕で夢を叶えているか、また違う世界に飛び出していずれにせよ密度の濃い経験を重ね、はるかに充実した人生を送ってるんだろうなぁ。『砂の女』も評価されてる英語の記事を最近見たのが改めて読もうと思ったキッカケだったり、『みずうみ』『箱男』はそのコメント欄から。一方で海外文学は「日.本語訳の文庫出てなーい!><」とか泣き言言ってる自分が心から恥ずかしくなったとも。英語さえ何となくわかりゃ良いだろ、ってか日/本語が好きなの、外套だの葡萄酒だの無理やりカタカナな表現が!って開き直ってた自分よ、ちょっとソコへ直れ?^^# でもぶっちゃけペーパーバックはかさ張るし、バンドでも付けとかないと開いちゃって文庫より更に長持ちしない点が嫌なんだよなぁ。まぁ日.本が人口のある島国で、母国語以外は話せないけどマニアックに文学含め海外の諸々に興味を抱く人間が一定数存在してしまう点が、翻訳がんばり過ぎ文化の恩恵?なのかなと幸運に考えてきましたが・・・。このままじゃアカンのかな、やっぱり?(・・;)
以下、病みを含む家族グチとか読書について
↓
近所のツ○ヤ行ったら公房さんの本一冊もなくて絶望した!田舎だから?一応(あんまりレベル高くない&保育士とか実践系のだけど)大学も近くにあるのに>< しょうがないから『第四間氷期』 も『壁』の次に狙い定めてポチっとリストに加えときました。うん、今の歪みが向かってしまう対象はコレなんだよなー。 ぶっちゃけ『壁』の次にコレをセレクトしたのは、某番組でフィンラ○ド人高校生が読んだ話してて驚愕したから。某ガ○パン艦○れオタの大学生?といい、ヨーロッパでは珍しくない、って聞きますけどやっぱりウチの妹弟より年下の子が既にマルチリンガルで母国語からかなり遠いはずの、恐らく日.本人の同世代すら何割が読んでるか、って純文を原語で読める上に将来はその言葉を使って小説書きたいとか、どんだけ意識高いの!?(;´д`)と焦ってしまったので(笑)きっと私の歳になる頃には余裕で夢を叶えているか、また違う世界に飛び出していずれにせよ密度の濃い経験を重ね、はるかに充実した人生を送ってるんだろうなぁ。『砂の女』も評価されてる英語の記事を最近見たのが改めて読もうと思ったキッカケだったり、『みずうみ』『箱男』はそのコメント欄から。一方で海外文学は「日.本語訳の文庫出てなーい!><」とか泣き言言ってる自分が心から恥ずかしくなったとも。英語さえ何となくわかりゃ良いだろ、ってか日/本語が好きなの、外套だの葡萄酒だの無理やりカタカナな表現が!って開き直ってた自分よ、ちょっとソコへ直れ?^^# でもぶっちゃけペーパーバックはかさ張るし、バンドでも付けとかないと開いちゃって文庫より更に長持ちしない点が嫌なんだよなぁ。まぁ日.本が人口のある島国で、母国語以外は話せないけどマニアックに文学含め海外の諸々に興味を抱く人間が一定数存在してしまう点が、翻訳がんばり過ぎ文化の恩恵?なのかなと幸運に考えてきましたが・・・。このままじゃアカンのかな、やっぱり?(・・;)
以下、病みを含む家族グチとか読書について
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あとマジでカオス状態だった母の机片付けただけでブチ切れられてメッチャ謎(^ω^#)「妹が勝手に持ち出して失くしやがった!」と騒いでた諸々発掘し整理して並べた上に、その旨ちゃんと伝えたのに「聞いてない!」とか「コレはここになきゃダメ!」だのひたすら怒鳴られて、もう今日花粉で喉も目鼻耳もボロボロで頭痛も酷いし勘弁してほしい・・・。そこにあるから、って言われたものを探してた成り行きから仕方なくしたことだったのに、「ちゃんとしまってたんだから欲しいなら欲しいって言え!」とか前後の発言に矛盾があるにも程が(以下略)ほんっと、父がお金持ってこない時の母にはお酒飲んでほしくないなぁ、と苦労の一因として申し訳なくも毎回思う。部屋にいても乗り込んでくるとか、ただでさえ鬱状態の精神HPガンガン削られていくわ。マジでみんな仕事頼んだら期日守って支払ったって、自営業や個人事務所系は特にこれから税金鬼のように取られる時期だし(仕事受けてる以上は実際の払い込みが済んでなくても相応の収入があったと換算されるんやでー)、福利厚生や諸々の手当てなんかはもちろん無い本当ギリギリの状態なんで(-_-;)
で、そんな母が机を見てキレ出す前、「あんたの読み方は牛みたい」と読書姿勢について言われました。牛は一度胃袋に入れた草を何回も口の中に戻して噛みながら飲み下すのを繰り返すそうな。だってさ、そうしないとちゃんと自分の一部になんないじゃん? せっかく新しい言葉を覚えても、その意味を本当に実感して自分のものにしないと絶対使いこなせない、という気持ちが昔からあって。(『ガラスの仮面』で主人公マヤがどう演じるか悩み苦しんでいたヘレ○・ケラーの「Water!」並みに痺れる感覚が来ないとダメですよ(´-`))ストーリー全体もそう、途中までの解釈が全部間違っているんじゃないか、と感じたら初めから戻って読み直す。だから後でそうしやすいように「もしかしたらココが動くポイントなんじゃないか」って場面に折り目を付け、一つのフレーズとしても頭に残りそうなセリフや発想は“自分のもの”として理解できるように線を引くんですね(^^;メッチャ時間かかるし謎な読み方だと思います。線引きは外では自重するけど、折り目と読み返しはやるな・・・だから本買って持っとくしかないんだわ(笑)
紙の上の話読んだだけで登場人物や作者の意図を全て取り込めるとは思えないけど、『ティモシー・アーチャー~』のエンジェルが言っていたように、知らない世界を知っている気分になることはできる。彼女のように完全に繋がった、とか他者の目で世界を見られたとは思わない。ただ、理解の窓口に接することができたように感じる喜びは何物にも代えがたい。そして例え立場や時代や性別や人種や国が違っても、似たようなこと考えて共感できる人がいたんだな、ってことに安心する。あるいは同じ出来事についてこんな見方もできるのか、という新鮮な驚きを覚え、気持ちが楽になることもある。読書の最大の喜びはそういうことで、エンジェルのような才媛的読み方や暗記・講釈はできなくても、一人の作家・あるいは登場人物と向き合い対話したような気分に浸れる、解り合えたような、改めて差異を学べたような、何というか空っぽの内面を少しでも満たしてもらえたような感覚が嬉しくて堪らないんです。(何回も繰り返していますが、私は自分を虫けらの中でも特に内側が食い荒らされていつまでも葉っぱにしがみついたままの空洞のサナギみたいだと思っていて。我ながらキモいけど(笑)だから図鑑の中のソレ系の虫のページをよく覚えてるんですね。○○コバチ系とか、成長して時期が来れば空になったサナギから飛び立っていく寄生して育つ生き物。蝶が出てくると思ってたら大量のハチが出てくるとかスゲェ!という印象だけじゃなしに、自分の一部を栄養とし取り込んだはずの彼らは一体どこに行ってしまったのか、残された空のサナギは例え「死んでいる」状態だとしても寂しかったり虚しくはないのかな、とずっと考えていたりする@ビョーキだからね!^^)人間ファンとして、人間の書いた、人間らしい物語の中の何かを注いでもらい、そちらへ近づけたような気分になれるのが私にとっては読書の最大の魅力かな、と(*´∇`*)
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典型的な英/国文学が読者を追い詰めて追い詰めてぶっ刺して終わる話だとしたら、何故か犯人(作者)が傷口にヨードチンキ塗って去っていくような不思議なやさしさが余韻に纏わるの。刺された傷の深さはどうしようもなく、ヨードチンキは沁みるんだけど、その沁みる痛みがいたわりだと分かってる。あー、もう何て言えば良いのか・・・例えば非キ○スト教文化圏と見なされている、ip○細胞の研究に異を唱える勢力が存在しない国がルーツの作家でなかったら、こういう作品は英語圏で受け入れられなかったかもしれない。電気羊のように、思いっきりSFチックな架空の近未来を舞台にする、という手段を用いなければ、その親族や所属するコミュニュティからハブられたり、時には生命の危険が及んだかも。けれど彼は日.本と言う国をバックグラウンドに持つことで、ある意味自由に、“現代”のイギリ○で臓器移植のためだけに生み出されるクローンが当たり前に存在する世界、という物語を描けたのではないか。具体的な時代・国・そして文化に基づいていながら非現実的な、けれど完全に“あり得ないことでもないかもしれない”と思わせてしまう衝撃的な作品を。
前半だけ読めば普通のありがちな学園物ですよね、恩田陸の『三月~』シリーズに登場するようなのと何ら変わらない、特殊な事情を持つ子供たちだけが集められた閉鎖的な場所における、子供らしい喜びや葛藤や好奇心に満ち溢れた、何ということのない当たり前の幼年~思春期にかけての成長物語。けれど度々登場する「提供」という言葉、そしてルーシー先生の一件が不吉な予感を漂わせる。まぁ最初から全てを終えた、あるいは終えようとしている主人公がネタばらしをしているわけですが(笑)
ドラマ版の劇中歌DLしたんですけど、「Never let me go~」の後に「Never let you go~」と続く箇所があって、何か「提供者」の側とソレを欲する側(の身内)の両方の気持ちで聴いてしまうんですよ。私、「○○ちゃんを救う会」とかにどちらかと言うと否定的で寄付もしないタイプですが(その何千万、何億あったらただの飢餓で死んでいく子供たちを何人救えるか分からないのに、たった数年の寿命を、子供自身にとっては苦しみかもしれない時間を親のエゴイズムで引き延ばすためだけに大金かけて海外まで行ってその国の子供の死を待つ、という行為に抵抗を感じざるを得なくて(-_-;))、恐らく移植を待つ患者の家族の立場からすれば「あなたを連れて行かないで」と必死なんだな、って。邦訳タイトル『わたしを離さないで』ですが、「わたしを行かせないで」とも訳せるし、meがyouになったらますます「行かせないで」と、“わたし”でも“あなた”でもない、第三者に対する懇願の形式になりますよね。それを病という死神と捉えれば良いのか、クローンを生み出し消費する一般的な人間たちと捉えれば良いのか、あるいは彼らの悲痛を知りつつも敗北した先生やマダムたちに向けてのものと捉えれば良いのか、その全てなのかは分からないけれど・・・「提供者」となるべく生み出されてしまったクローンの側にも、親しい人の回復を懸命に願う人間の側にも同情し過ぎてしまって境界線がわからなくなった。
どうしてこんなことになったんだろう?こんなことが許される社会に。試験管で臓器だけって作れなかったの?i○s細胞みたいにさ!だから、真実を知らされたトミーの「ルーシー先生は正しかった」って癇癪を起こす心情は心から理解できた。だって、いずれどうにもならないことなら、猶予も何ももらえずに死んでいくだけの命なら、それが運命なら、感情なんていらなかっただろう。誰かを愛しいと思う気持ち、もっと生きたいと願う欲望、好きな人に格好の悪い最期の姿をさらしたくないというプライドも、それでも傍にいてほしい、少しでも長く一緒にいたいと祈る矛盾した本音も。自分を表現する喜びも、目的も、達成感も、スポーツの楽しさも、妄想にふける秘密の時間も。世間から人間ではないものとして見られ、扱われていることさえ知らずに、彼らは人として育ち、人として気持ちが揺れ動くこと、それを伝えること、悲しみ、喜び、愛することを知り、それ故にこそ苦しんで、もがいて・・・でも彼らが誰よりも信頼していた先生とマダムは「彼らがそれを知ったことこそが、“人間”らしく生き、成長したことこそが最大の功績」だと語る。そんな理不尽なことってあるか、結局計画が失敗に終わり意気消沈しつつ、これから本当に失われゆく“命”(脳があって心臓が動いているなら、クローンだってそれは立派な命に違いない)に向かって何て残酷な自己満足をぶつけるのだろう。この辺私もトミーと同じくらい胸を掻きむしりたくなりました。彼女たちにとっては、それが精いっぱいだったのだろうけれど。
作者は――キャシーは、それでも彼女たちによって彼らが“人間”らしくなれた、ただのクローンではなく、間違いなく一人の“人間”として生きることができたのだ、とその意義を最後には肯定的に描いているように感じたけれど。私だったら、何も知らず人形のように育てられ、死への恐怖や自身の存在意義を疑うことなく提供の日を待つ方がよっぽど気が楽になると思う。でもそうしたら、投げやりで無気力で自分の身体を大切にすることさえしなくなるかもしれない、と考えるとエミリ先生の方針が正しい、と言えるかもしれないし、彼女も「より健全な肉体から臓器を受け取るために」その方が理に適う、という方向で社会を説得すれば良かったのかもしれない。
「ルースと知り得た真実を分かち合いたかった」と話すキャシーに「ルースは知りたがりやの俺たちとは違って信じたがりやだから、知らない方が良かった」と答えるトミーに、あぁ、何だかんだ言ってコッチはコッチで通じ合っているところも確かにあったんだな、と納得。だからルースはあんなに必死に虚勢を張り、“本当のことは何も知らない=知り得たことの何もかもが嘘かもしれない”世界を懸命に否定していたんだ(゜Д゜)ピコーン! それでも、彼女とソレを分かち合えたら、と願わずにはいられないキャシーに、やはりルースは彼女にとってトミーとは違った意味で魂の片割れ、重荷を半分背負ってくれるはずの大切な存在だったのだ、と改めて切り離せない三人の関係にしんみりする。「提供者になったことがないからわからない」と言われた際にルースの名前を出されてキャシーが愕然とするくだりもそうですよね。「二人に置いて行かれた」って。
でもトミーはそういうことが言いたかったんじゃなくて、彼のキャシーへの恋心を察していたルースなら臨終の見っともない苦しみとどうしようもない別れの辛さを、愛する彼女の前でさらけ出したくない、という気持ちを汲み取ってくれただろう、という意味で告げた言葉だったのに(´;ω;`)ブワッ ソウルメイトの同性の親友とは訳が違うもん、苦しみも情けなさも悲しみも何もかもを分かち合うような関係ではなく、最後まで綺麗な想い出にしておきたかったんだよ、トミーは。それほどに愛していた、大切だった、と。何かルースの時とは違った方向の、やっぱり確かな絆が、愛がうかがい知れてここもガン泣きするシーンだったな。・゜・(ノД`)・゜・。三年よりはるかに短くても、確かに愛し合えた“猶予”の時間が二人には存在したんじゃないか、それは他の「提供者」が望んでも中々得られることのない、長い長い真実の愛を、まごうかたなき人間である証を二人が立てられた、それを知れただけで十分に幸せな人生を得られたと言っても良いんじゃないか、と考えてしまうのは“人間”側の奢りだろうか?とか、トミーの別れ際のセリフに色々グルグル考えさせられてしまった。少なくとも私よりは、二人の方がよっぽど人間らしくマトモに生きてるよ(笑)
そして最後のキャシーの、穏やかな独白の締めくくりが、これまでの生き方に何の後悔もない、ただひたすらに二人を失った寂しさだけが存在するけど、二人と出会えたこと、過ごしたこと、そして喪う悲しみを味わえた自分自身に満足しているように感じたんです。だから、個人的に「生徒たち」の立場で考えれば肯定はできなかったけれどエミリ先生の理想は正しかったのだ、と。作者もそれを強調したくて、語り手を誰よりも冷静に周囲を見渡す能力がありながら、同時に感受性の強さも持ち合わせたキャシーという女性に託し、人間、ひいては命というものの全てを肯定し、改めて考えさせるストーリーに持って行ったのではないか、と。そう、否定がないんです!それだ傷口にヨードチンキ、っつーかイギ○ス感が薄れるラスト!各々のキャラに様々な見方・主張を代弁させた上でどれが正しいという答えを提示せず、曖昧模糊として読み手側に自由に受け止めさせる結末なんですよ。痛いのに、苦しいのに、悩んでいるのにその手法によってどこかホッとさせられてしまう(´Д`;)=3 「皆さん、この出来事について善か悪か、あるいはこの場面でどうすべきだったのか考えてみましょう!」と議論を促す感じじゃなくて、各自が考えたことを白黒付けずありのままに心に秘めてて良いんだよ、ただずっと覚えていて、忘れないで考えてね、って心の中で静かに囁かれたような。
「ヘールシャムは私の頭の中に安全に保存されている」このくだりに、作者さんが小説を書き始めたきっかけが「幼い頃のおぼろ気に覚えている思い出の中の日/本」を保存しておくため、と何かの講演で語っていたエピソードを思い出した。ドンドン変わっていく世界の中で、彼にとってのキーワードは“記憶の保存”。その後書きたいテーマさえ決まっていれば好きに場所や時代を動かせることに気づいてしまい、逆にそれを絞るのに難儀するようになった、という話も面白かったけど。そうかもしれない、“書く”という行為の原初的な目的は、日々蓄積され脳みその容量からはみ出していく膨大な情報の中から、どうしても忘れたくないもの、忘れてはいけないものを残すための手段だったんだ、と。たぶん名前だけは海外系のサイトでしょっちゅう見かけて気になっていたカズオ・イシグロに初めて興味を抱いたのはあの番組を観てのことだったかな? だから、答えを出さない作者の写し身がキャシーなんだ、と性別は違うけど感じたのかな。単に一人称だったからかもしれないけど(・・;)
いや次は『箱男』に行く予定なんだけど、全然違ったノリらしい『日の名残り』も楽しみやなー(´∀`)♪
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あの夜の真っ暗な空に光り輝く星は確かに綺麗だった。今まで見たことがないくらい、澄みきった美しい星空。寒くて寒くて仕方なかったけれど、電気もつかないし燃料がいずれ尽きることも分かっていたから、我慢してガクガク震えながらすぐに逃げられる格好で何枚も毛布を重ね、復学に向けてそれまで中断していた薬を飲みまくって必死に眠った。次の日以降に待つものの過酷さを分かっていたから。地獄みたいな光景が目に入ってくるのを、今この瞬間消えようとしている命の灯がそこここにあるのを、近くで感じざるを得なかったから。でもどうしようもなかった。何もできなかった。だからせめて、次の日は何が起こっても良いように、少しでも長く動いて役に立てるように、早く寝よう、夜明けを待とう、って。あんなに震えて恐ろしかった夜はない。違う地方とはいえ、よくあの日の夜空再現する気になんかなったな。今でも怖い。あの日が近づいて、その特集ばっかりになるのが嫌で堪らなくて、海外系のニュース確認する以外はずっと本の世界に逃げてる。せっかくとりあえず社会復帰、って落ち着いた気持ちが引き戻されてしまうみたい。何で私が生きちゃってんの?って堂々巡りに。自分の存在が無力で無意味だと強く感じてしまう。結局怖くて何もできなかった。今もできない。できる気がしない。私じゃ無理だ。悔しい。逃げたい。なんで? 全部混じって気持ちがカオスに陥るんですよ。あの日とそれに関することは、整理し向き合って受け入れるということが未だに、もしかしたら一生ちゃんとした形では叶わないことなのかもしれない。
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色々改変されてるんやなー、とかやっぱり舞台を日/本に置き換えると不自然、とか思いつつも、号泣したよね(^∀^)゜σヒャーハッハッハ・・・ハ・・・ブワッ。・゜・(ノД`)・゜・。ビエエエーン! いやあの、原作では割とアッサリ目?というか淡々とした文体で(えげつないストーリーや主人公のキャラクター設定に不必要な感傷を織り込ませないためにちょうど良いバランスだとは思う。イギ○スらしい表現方法とも言えるし。でも決して主人公キャシー@ドラマ版:キョウコが冷たい人間ではなく、必死に激しい感情を押し込めるため、彼女の最も大事なものとの想い出を語ることによって人としての尊厳を保つべく独白しているのだ、という空気が出だしからずっと行間に漂い続けているように感じるから。)描かれるルース@ドラマ版:ミワとの別れが、ドラマVer.では真に迫るものになっていてすごく泣けた(´;ω;`) やり過ぎと捉える人もいるかもしれないけど、私がずっと本の中でルースについて感じていたことをよりハッキリと分かりやすく表す演出・脚本に仕上がっているのではないか、と。(前回ラスト10分+今回観た限り)ただ学園の設定や現在の生徒たちとの遭遇シーンなんかはちょっとアレな予感がしなくもないけど、そこはお国柄という事情もあるんでしょうしね。(今日出てきた回想見た感じセック○やお付き合いについての表現や在り方もそうかな? 寄宿舎付きの閉鎖的な学校とかこっちじゃあんまり無いしねー。イギリ○にはモデルに出来そうなパブリック・スクールなんかもあるけど)
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
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今日のリスト追加物件→『壁』母に公房さんハマった、と話したら「これしか出てこない」と言われた上にチェックしたあらすじがカオス過ぎて(以下略)彼の作品に関しては一つ読んだら次のポチる路線で行くわ、噛みしめたいもん・・・。あと『わたしを離さないで』(ドラマをチラッと見て気になったらしい母が最初と最後だけ読んで「イラッと来る!」と投げ捨てたため、噛み砕いて全体を解説すべく『日の名残り』より優先させることに(;´д`))の後ろに紹介されてた『青い眼がほしい』のストーリーが気になりすぎて追加。今回の「真っ白」なオスカーネタといい、人種の問題って日/本人にはどうしても理解しがたいところがあるじゃないですか、マイケル・Jのものすごい整形っぷりとかさ。
あとトラ○プさんの相変わらずの暴言ぶりにK和党の重鎮たちが遂にキレ出したとのことだが、彼マジで思い○り予算のことご存じないのかな・・・?(´-`) アメ○カとしては仮想敵国×2のすぐ傍にある、一定の人口と経済規模を備えたポチ同然の不沈空母()を手放すのはよっぽど切羽詰まらない限り損に他ならないだろうし、とりあえず同じ党内で声上げる勢力が出てきてくれたのはウチにとって良かった、と言えるのかな? ポチに拍車がかかりそうな現状を見てると、いずれ今の米ポジを狙う隣にとっては最大の邪魔にしかならない立ち位置で生き残るための道を真剣に選ばないといけないウチらが、一度思い知って自立をやっとこさ真面目に模索するというショック療法とどっちがコスト的にマシなのか、とか天秤にかけてしまったりもする(笑)
で、やっとこさ本題のタイトルの方に対し何故わりと信者気味なのかということについて。宮城県民として、例の震災後に帰化という選択をしてくれた彼に好感を覚えたからか? いや実はその前からなんですよね、だって『源氏物語』から日.本オタになったオペラ好きが悪い人なわけねーだろ!(゜ロ゜)カッ! という理屈で・・・。だってオペラなんて、ぶっちゃけ初演から今に至るまで上演され続けてるような有名どこは大概が不条理満載の悲劇ばっかりやで? バレエの方がまだマシだっつの。源氏だって生まれと容姿に恵まれただけのマザコンロリコン浮気性のクズ野郎が散々悲劇のヒーロー気取りでさまよった挙句、最後の最後に上げるだけ上げて奈落に突き落とされるだけの話。サムライやニンジャという分かりやすく格好良いアイテムから日/本にハマる外国の方は一定数いても、「世界最古の長編小説」の世界観を受け入れられる人は中々いないだろう。それなのに彼は、何とソコからウチの文化に目覚めちゃったんですよ。そしてその後学んだロ○ア語の世界・文化にはそれほど夢中になれなかった、と(ノ∀`)
オペラと源氏の世界を同時に愛せるのは、キーン先生がとりもなおさず人間の弱さと醜さをありのままに受け入れ、愛することのできる性質をお持ちだからだと思うんです。そしてそういう人間の不完全さ、もうするまい、と誓ってなお繰り返してしまう失敗や哀しみや憤り、世の無常にこそ親しみを抱き、長く読み繋ぎ語り継いできた私たちの精神に、日.本からはるか離れた縁遠い国で生まれ育ちながら共感し、その糸口に触れてくれた人なのだと感じるから、彼の言葉や語る経験には興味を引かれざるを得ない。名だたる文豪たちも横暴なG. Iの姿ばかりを目の当たりにしてきた戦後に、そんな風に心底この国に関心を抱き、理解しようと努め、またその価値観や文化自体を外の世界へ広げようとしてくれている青年の熱意に打たれて交流を持ったんじゃないのかな?
敗戦後の、何もかもが粉々に叩き壊されアメ○カ的価値観を注入されようとしていた行き場の分からない日/本にあって、それを受け入れられない、あるいは以前の自分たちの何もかもが間違っていたとしたなら一体何をどこまで残すことが許されるのか、どの道を選ぶのが正解なのか、特に元々反戦派が多かったであろう(だって戦時中は好きに妄想にふけることもできないんだもん)知識層の迷いはこの上なく深かったと思う。戦争を支持していたとしても不支持だったとしても、日.本という国や文化への愛着は、例え皮肉交じりの作品に仕立てあげるタイプの作家であっても確かに根付いていたことは、近現代純文作家の作品を読めばそこここに見受けられるから。なので、そんな混沌とした複雑な心情が渦巻く中にあって、他ならぬ彼らを作り替え、支配しようとしている国の人間で必死に日/本を、自分たちの文化を評価し残すべきだ、と訴えてくれる存在がいたということだけで彼らにとってはどれほどの励みに、救いになったことだろう、と。能を学び、あちこちの作家を訪ね、向こうでは翻訳に精を出し・・・ホントうちらがうちら自身を見失わずに済んだ恩人の一人と言っても過言ではないんじゃね?とフィ○ピンの現状とか見てると思うわ(-_-;)←関わりある方、すみません。
以下、関連するかもしれない愚痴(※自国の思想や外国への辛口含みますm(__)m)
↓
あとトラ○プさんの相変わらずの暴言ぶりにK和党の重鎮たちが遂にキレ出したとのことだが、彼マジで思い○り予算のことご存じないのかな・・・?(´-`) アメ○カとしては仮想敵国×2のすぐ傍にある、一定の人口と経済規模を備えたポチ同然の不沈空母()を手放すのはよっぽど切羽詰まらない限り損に他ならないだろうし、とりあえず同じ党内で声上げる勢力が出てきてくれたのはウチにとって良かった、と言えるのかな? ポチに拍車がかかりそうな現状を見てると、いずれ今の米ポジを狙う隣にとっては最大の邪魔にしかならない立ち位置で生き残るための道を真剣に選ばないといけないウチらが、一度思い知って自立をやっとこさ真面目に模索するというショック療法とどっちがコスト的にマシなのか、とか天秤にかけてしまったりもする(笑)
で、やっとこさ本題のタイトルの方に対し何故わりと信者気味なのかということについて。宮城県民として、例の震災後に帰化という選択をしてくれた彼に好感を覚えたからか? いや実はその前からなんですよね、だって『源氏物語』から日.本オタになったオペラ好きが悪い人なわけねーだろ!(゜ロ゜)カッ! という理屈で・・・。だってオペラなんて、ぶっちゃけ初演から今に至るまで上演され続けてるような有名どこは大概が不条理満載の悲劇ばっかりやで? バレエの方がまだマシだっつの。源氏だって生まれと容姿に恵まれただけのマザコンロリコン浮気性のクズ野郎が散々悲劇のヒーロー気取りでさまよった挙句、最後の最後に上げるだけ上げて奈落に突き落とされるだけの話。サムライやニンジャという分かりやすく格好良いアイテムから日/本にハマる外国の方は一定数いても、「世界最古の長編小説」の世界観を受け入れられる人は中々いないだろう。それなのに彼は、何とソコからウチの文化に目覚めちゃったんですよ。そしてその後学んだロ○ア語の世界・文化にはそれほど夢中になれなかった、と(ノ∀`)
オペラと源氏の世界を同時に愛せるのは、キーン先生がとりもなおさず人間の弱さと醜さをありのままに受け入れ、愛することのできる性質をお持ちだからだと思うんです。そしてそういう人間の不完全さ、もうするまい、と誓ってなお繰り返してしまう失敗や哀しみや憤り、世の無常にこそ親しみを抱き、長く読み繋ぎ語り継いできた私たちの精神に、日.本からはるか離れた縁遠い国で生まれ育ちながら共感し、その糸口に触れてくれた人なのだと感じるから、彼の言葉や語る経験には興味を引かれざるを得ない。名だたる文豪たちも横暴なG. Iの姿ばかりを目の当たりにしてきた戦後に、そんな風に心底この国に関心を抱き、理解しようと努め、またその価値観や文化自体を外の世界へ広げようとしてくれている青年の熱意に打たれて交流を持ったんじゃないのかな?
敗戦後の、何もかもが粉々に叩き壊されアメ○カ的価値観を注入されようとしていた行き場の分からない日/本にあって、それを受け入れられない、あるいは以前の自分たちの何もかもが間違っていたとしたなら一体何をどこまで残すことが許されるのか、どの道を選ぶのが正解なのか、特に元々反戦派が多かったであろう(だって戦時中は好きに妄想にふけることもできないんだもん)知識層の迷いはこの上なく深かったと思う。戦争を支持していたとしても不支持だったとしても、日.本という国や文化への愛着は、例え皮肉交じりの作品に仕立てあげるタイプの作家であっても確かに根付いていたことは、近現代純文作家の作品を読めばそこここに見受けられるから。なので、そんな混沌とした複雑な心情が渦巻く中にあって、他ならぬ彼らを作り替え、支配しようとしている国の人間で必死に日/本を、自分たちの文化を評価し残すべきだ、と訴えてくれる存在がいたということだけで彼らにとってはどれほどの励みに、救いになったことだろう、と。能を学び、あちこちの作家を訪ね、向こうでは翻訳に精を出し・・・ホントうちらがうちら自身を見失わずに済んだ恩人の一人と言っても過言ではないんじゃね?とフィ○ピンの現状とか見てると思うわ(-_-;)←関わりある方、すみません。
以下、関連するかもしれない愚痴(※自国の思想や外国への辛口含みますm(__)m)
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・・・母が最近クロスワード系にハマってるんですけど、「大御心」という言葉が出てきただけで「さっきもおおきみ(大君だったのか大王だったのか知らないが、前者は高貴な人物の長女という意味もあったり、外交文書では将軍を示すものだったり、後者は普通にアレクサンダー大王的な使われ方も世界的にしている語ですが?)って言葉も出てきたし、この雑誌なんか右.翼っぽい><」とか顔しかめるんですね。そりゃそういう世代なの分かってますよ、昨日読んだ『砂の女』に描かれた教師たちの例を考えただけでも、まさにウチの親の世代がどんな教育を受けてきたかは想像に難くない。(国歌を「民が代」と歌えと教えられたそうな。笑)
でもぶっちゃけ古代~中世の日/本史オタでそっちの専攻に在籍していた身としては、その程度の言葉でそんな反応されてしまうとプチッと切れたくもなってしまうわけで(^ω^#) アンタ日.本人として生まれときながら自分が生まれ育った国で使われてきた語彙を否定するのか? 左右関係なく自国の歴史を知る上で外せない用語なんだが、ソレを右/翼っぽいだって? ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎた欧米じゃないんだからさー、歴史の隠蔽だの言葉狩りだの馬鹿げたことは止めようよ。マジで『1984』の世界じゃないですか? 下手すると敬語全般禁止になるんじゃねーの、階級制の名残りとか言って(笑)タ.イなんか未だに王族・僧侶・一般人と敬語の使い分けが残ってる。それだってその土地・地域・民族そして国の立派な言語で文化で歴史の一部。消してはいけないもののはず。いくら「間違っている」として断罪されたものであっても、焚書や易姓革命のように以前のものを根絶やしにするような真似は人間として絶対にしてはいけないことだと思う。消されかかったものへの愛着を持つ人々の反動が、ト○ンプやボ○ス・ジョ○ソンへの支持、あるいはプー○ン信者のようなかたちで表れてしまうから。
見えない声は、意志は静かにしていても確かに存在して力を持つんですよ。排外主義や差別の強固な否定という「正しさ」によって実際の過去や歴史を次々「上書き/消去」していく社会になってしまったら、それをよすがに生きてきた人々はどこへ向かえば良い? 自分たちの負の歴史を受け止めるって、そういう人々の存在や、その上に成り立ってきた自分たちの恵まれた生活・富・安定の意味を噛みしめていくことじゃないのか? 忘れるのでもなじって消し去るのでもなく、ただ淡々とありのままに受け止める。その時代に生きて、今この瞬間そういう思想や行動に加担していないのなら、歪めたヴィジョン(だって当時と同じ物差しなんか現代人に持てるわけないんだから、どうやったってそうなる)を通して卑屈になるのでも正当化するのでもなく、ただ事実を知る。そしてその重みについて考える。それだけで十分なんじゃない? ホント、今でも戦争し続けながら、搾取し続けながら一方では人権だの何だの振りかざして無茶苦茶な方向に二極化していく「先進諸国」とやらは、リアル精神病者から見てもみんな残らず狂っているとしか思えない^^
でもぶっちゃけ古代~中世の日/本史オタでそっちの専攻に在籍していた身としては、その程度の言葉でそんな反応されてしまうとプチッと切れたくもなってしまうわけで(^ω^#) アンタ日.本人として生まれときながら自分が生まれ育った国で使われてきた語彙を否定するのか? 左右関係なく自国の歴史を知る上で外せない用語なんだが、ソレを右/翼っぽいだって? ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎた欧米じゃないんだからさー、歴史の隠蔽だの言葉狩りだの馬鹿げたことは止めようよ。マジで『1984』の世界じゃないですか? 下手すると敬語全般禁止になるんじゃねーの、階級制の名残りとか言って(笑)タ.イなんか未だに王族・僧侶・一般人と敬語の使い分けが残ってる。それだってその土地・地域・民族そして国の立派な言語で文化で歴史の一部。消してはいけないもののはず。いくら「間違っている」として断罪されたものであっても、焚書や易姓革命のように以前のものを根絶やしにするような真似は人間として絶対にしてはいけないことだと思う。消されかかったものへの愛着を持つ人々の反動が、ト○ンプやボ○ス・ジョ○ソンへの支持、あるいはプー○ン信者のようなかたちで表れてしまうから。
見えない声は、意志は静かにしていても確かに存在して力を持つんですよ。排外主義や差別の強固な否定という「正しさ」によって実際の過去や歴史を次々「上書き/消去」していく社会になってしまったら、それをよすがに生きてきた人々はどこへ向かえば良い? 自分たちの負の歴史を受け止めるって、そういう人々の存在や、その上に成り立ってきた自分たちの恵まれた生活・富・安定の意味を噛みしめていくことじゃないのか? 忘れるのでもなじって消し去るのでもなく、ただ淡々とありのままに受け止める。その時代に生きて、今この瞬間そういう思想や行動に加担していないのなら、歪めたヴィジョン(だって当時と同じ物差しなんか現代人に持てるわけないんだから、どうやったってそうなる)を通して卑屈になるのでも正当化するのでもなく、ただ事実を知る。そしてその重みについて考える。それだけで十分なんじゃない? ホント、今でも戦争し続けながら、搾取し続けながら一方では人権だの何だの振りかざして無茶苦茶な方向に二極化していく「先進諸国」とやらは、リアル精神病者から見てもみんな残らず狂っているとしか思えない^^
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